・池内紀の居住歴(2)
昨日の続き。
中公新書2023『東京ひとり散歩』の「まえがき」に拠れば、池内氏は姫路から上京して、まづ北区滝野川に住んでいる。滝野川と云っても西は赤羽線(埼京線)の板橋駅から、東は京浜東北線の王子駅近くまで、かなりの面積があって最寄り駅も違って来るが、前回の引用の続き、ⅲ頁11行め~ⅳ頁2行め、
はじめは面くらった。関西の城下町に育ったので、まわりにはいつも目じるしの山があり、/町外れには川が流れていた。橋の上に立つと、夕もやの中にお城が浮かんでいた。
ところが東京には、どこにも山がなく、まわりは家ばかり。滝野川に川は流れていなかっ/た。すぐ近くが飛鳥山と知って出かけたが、山ではなくて、ちっぽけな丘だった。目の下を/【ⅲ】ひっきりなしに電車が通る。貨物列車が長々と通過する。不思議な獣のうなり声のように遠/いひびきが伝わってきた。
ⅳ頁7~10行め、
滝野川のアパートの近くに一里塚があって、慶長九年(一六〇四)の年号が刻まれていた。/関ヶ原の戦いの四年後、江戸幕府が開かれた翌年にあたる。
少し歩くと古河庭園というのにいき合った。「銅山王」といわれた人の旧邸だそうで、建/築家コンドル設計の石づくりの建物があった。階段状の庭にツツジが咲き乱れていた。
飛鳥山(北区王子1丁目1番3号)の「すぐ近く」で、西ヶ原一里塚(北区西ヶ原2丁目4番2号)が「近く」で、「少し歩くと」旧古河庭園(北区西ケ原1丁目27番39号)と云うのだから、北区滝野川でも東端の1丁目であろう。滝野川1丁目は東京外国語大学のある西ヶ原4丁目に隣接しており、交通機関としては滝野川1丁目を縦貫する都電32系統(滝野川線、現・荒川線)があるが、飛鳥山停留所(1丁目4番)もしくは滝野川一丁目停留所(1丁目23番)から、大学最寄りの西ヶ原4丁目まで1駅か2駅だから歩いて通ったのであろう。
板橋についてはⅣ頁11~12行め、
とあって、この「板橋」は板橋区ではなくて、板橋区板橋であることが分かる。尤も、赤羽線(埼京線)板橋駅の西口は板橋区板橋だけれども、東口は北区滝野川で、近藤勇墓所は東口、北区滝野川7丁目8番10号にある。――板橋に住んでいた当時は、都電18系統(板橋線)で新庚申塚停留場まで通っていたのであろう。(以下続稿)