瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

芥川龍之介「尾生の信」(2)

岩波文庫31-070-15(2)
 昨日「違和感」があるので「手にしていない」と書いた岩波文庫だが、勤めの帰りに図書館に立ち寄ったら棚にあったので借りて来た。刊年月日・定価・頁数は昨日の記事に追加して置いた。
 カバー表紙の紹介文は以下の通り。

隅田川沿いでの生/い立ちを反映した/最初の小説「老年」,/以後,芥川は多彩/な短編小説,小品/を織りなした。素/朴な娘の愛情の表/現に,憂鬱な感情/を忘れる「蜜柑」,/中国古典に拠った夢と詩情を描いた掌篇「尾生の信」…。愚/ともいえる素朴で正直な人間にも,作者は優しいまなざしを/向ける。芥川の佳作二十篇を選んで収める。(解説=石割透)


「尾生の信」は表題作に選ばれているのだが、これは「蜜柑」の少女と共通する「愚ともいえる素朴で正直な人間にも,‥‥」と云う点での選択と云うことになるのであろうか。
 巻末219~221頁「初出・単行本一覧」に拠ると大正3年(1914)5月から大正9年(1920)9月までの20篇が発表順に収録されており、157~160頁「尾生の信」は17番めである。
 199~218頁、石割透「解説」は、所収作品を大体順番通りに取り上げ、芥川の伝記や関連する作品と絡めながら解説している。「尾生の信」については以下の通り。216頁11行め~217頁2行め、

「尾生の信」の尾生については、『荘子』盗跖*1篇第二九にも「尾生与女子期於梁下 女/子不来 水至不去 抱梁柱而死」とある逸話で、『荘子』では「不念本養寿命者也」と/評される。稲垣達郎氏は、大賀順治編『支那奇談集 第二編』(一九〇六年、近事画報社)あ/たりから芥川はこの小品を思いついたのではないかと推測され、『荘子』の「抱梁柱而/死」を芥川が書けなかったことを重視された。『支那奇談集』には、橋梁を抱いたまま、/【216】生命を捨てたが、「尾生の信も中庸を得ていないだけに余程ロマンチックである」とも/評され、確かにロマンチスト尾生が強調されているのが見て取れる。


 稲垣達郎(1901.10.21~1986.8.13)が取り上げている本は昨日取り上げた森脇紫逕『〈故事/俚諺〉教訓物語』とともに、国立国会図書館デジタルコレクションの「インターネット公開」で閲覧出来る2点の「尾生の信」の、もう1点なのである。
・『支那奇談集 第二編明治卅九年四月八日印刷・明治卅九年四月十日發行・近事畫報社・目次3+303頁
 このシリーズは『第三編』まで出ているようだ。しかしながら国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来るのは『第二編』のみである。『第一編』は国文学研究資料館の「近代書誌・近代画像データベース」で部分的に閲覧出来るが、「明治卅九年五月十二日印刷・明治卅九年五月十七日發行」で『第二編』よりも後で出ている。そしてどうやら『第三編』が一番早かったらしい。『第一編』の奥付は『第二編』とほぼ同じで、印刷/発行日の下の枠に「毎月/一回/二十/日發行|定價一冊金參拾五錢|六冊前金貳圓十錢|拾二冊前金四圓貳十錢」とあって、月刊誌みたいなものの明治39年(1906)4月号と5月号に当たるものらしい。なお定価が前金でも安くなっていないことが少々気になる。3冊しか出なかったのなら尚更この前金がどうなったか、気になる。それはともかくとして、この3冊は『聊斎志異』の早い時期の纏まった翻訳として注目されていて、芥川への影響も研究されているらしいが、そこまで追究する余裕は今の私にはないので「尾生の信」に絞ろう。
 なお、本書の編者、石割透(1945生)は駒澤大学名誉教授で、昭和44年(1969)に早稲田大学第一文学部(日本文学)卒業、昭和52年(1977)に早稲田大学大学院文学研究科(日本文学)を出ているが学位は文学修士、当時のことだから修士課程を修了して博士課程に進んで「単位取得退学」であろうか。そうすると学部及び大学院で稲垣氏の授業を受けていた可能性がある。著書を見れば分かるのだろうけれども。(以下続稿)

*1:ルビ「とうせき」。