瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

白馬岳の雪女(35)

・遠田勝『〈転生〉する物語』(15)「一」9節め②
 昨日の続きで9節め「地名の魔力」の後半を見て行こう。39頁8行め~40頁6行め、

 物語は地名をもとめ、地名は物語に魔力を与える。結局、白馬岳の雪女伝説の流布において、青/木の果たした最大の功績――これを素直に功績というのは、ためらわれるのだけれども――それは、/雪女の伝説を白馬岳という地名に結びつけたことだろう。
 もともとハーンの武蔵の国という設定は、この傑作にとっての唯一といってもいい弱点だった。/かつては武蔵の国でも大雪が降ったのだと弁護する向きもあるけれど、やはり民俗学的にみて、武/蔵の国は、雪にまつわる口碑伝説の豊富な土地ではない。また、大河を前にした雪深い森という風/景も、どちらかといえば、日本よりも、ヨーロッパや北米大陸を思わせるものだ。それを青木は、/信越国境の雪深い山中に移し、さらには、白馬岳という、その名がすでに物語性をおびた日本アル/プス屈指の名峰と結びつけたのである。
 白馬岳の雪女――【39】
 このみごとに詩的な響きだけで、物語としての成功は、約束されたようなものだった。この時点/で、青木の偽作の流布は、止めようがなかったのである、わたしたちの伝説や物語の世界では、地/名、とりわけ、美しい山岳高地の名前は、それほど大きな魔力をもっている。そもそも企画として/の目新しさ以外、なんの取り柄もない『山の伝説』が、たえず一定の愛読者と模倣者を得てきたの/は、そのためだった。こうして。ハーンの「雪女」は、日本の口碑伝説として、始めの――そして/決定的な一歩を踏み出したものである。


 「白馬岳」と云う地名に力があることは確かだが、そのことが「雪女」の日本への定着・流布の主因となったのかと云うと、私はそうではないと思う。
 ――織田信長豊臣秀吉徳川家康の事蹟について、彼らが天下を取ったと云う結果から逆算して近世以来伝記が書かれ、実際には失敗だったり、偶然上手く行っただけのことが、まるで後の大成功への布石だったかのように扱われている、と云った歴史の再検証が、平成初年以降盛んに行われるようになって、当時大学院生だった私もそう云った本を面白がって読んだものだったが、この遠田氏の説明も同様に、白馬岳の雪女が定着し、38頁9行め「ハーンの原拠とする説が登場してしまう」ほどに「まで成功した」ことから遡って、青木氏の「意図」を推し量っているように見えるのである。一言で云うと、ある筋を引いてその筋に沿って深読みをし過ぎているように、私のような物事を単純に考えたがる人間からすると、見えてしまうのである。
 私の見るところ、白馬岳の雪女が定着したのは、もっと単純な理由と、偶然とからである。
 別に「白馬岳」でなくても定着しただろう。別の山だったとしても、伝説集に取り上げられ続け、そして同じ偶然によって広く知られることになったであろう。ただ、確かに白馬岳ほど流布喧伝はされなかったかも知れない。すなわち、「詩的な響き」で「成功」したという側面を否定するものではないが、それよりも白馬岳が「信越国境」長野県・富山県に跨がる大きな山であったと云う地理的条件の方が大きかったと思われる。その事情をすぐに手短に説明出来れば良いのだけれども、詳しくは追々資料を追加しながら、述べることとしたい。と云うか、検証メモを積み重ねて行く当ブログでは、そんな按配にならざるを得ない。(以下続稿)