瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

白馬岳の雪女(094)

・石沢清『北アルプス白馬ものがたり』(4)
 昨日の続き。もっと簡単に見て行くつもりだったのだが遭難記事について少々細かくなってしまった。
白馬を愛した人々
【1】お花畑への埋骨の遺書
 大阪の染色工芸家「悟道さん」と、蕨平部落の山案内人・松沢勝一郎の交流。「勝つぁん」は北邨と名のる俳人で、北邨の句が2句ずつ計8句織り込まれる。なお112頁9行めのみ「勝っぁん」。
【2】白馬の雲をみていた川口さん
 113頁10行め「大平洋戦争のはじめころ」に移って来た11行め「名前」を「川口とい」う「三十歳近い一人の男」の、奇行と出征について。最後に1行分空けて118頁11~12行め、

 終戦後のある日、NHKラジオはチェーホフ桜の園をドラマ放送した。演出、川口一郎と/むすんでいた。


 川口一郎(1900.9.30~1971.7.13)は劇作家・演出家で、太平洋戦争の初めなら1回り上の40歳過ぎである。
【3】風の画家、奥田先生
 12月20日付(091)に引いた、奥付上の石沢氏の紹介に見えていた奥田郁太郎(1912~1994)について、昭和18年(1943)以来の四家部落での暮しを見て来たように描く。いや、見ていたのだろうけれども、石沢氏は登場しない。
【4】岳に描く子供たち
 昭和22年(1947)新制中学発足時から石沢氏が美術教師として勤め、奥田郁太郎の指導も仰いだ北城中学校の図画クラブの躍進。奥田氏との交流はこちらに描かれている。Wikipedia白馬村立白馬中学校」項には「沿革」に、昭和33年(1958)5月1日に神代中学校と統合して白馬村立白馬中学校となり、昭和34年(1959)1月10日に校歌と校章・バッジが制定されたとあるが、後2者は石沢氏のデザインである。この「沿革」にも幾つかの美術コンクール入賞のことが見えているが、実際にはもっと多く受賞しており、135頁6行め「 ラジオ・新聞・雑誌が、絵の学校として取り上げ、見学者も大変な数になった。」とのことであるが、既に忘れ去られた過去の栄光と云うことになりそうだ。7行め「 このころ、卒業した生徒の大半が進む白馬高校の指導も、兼任で引き受けることになり、」こちらでも成果を上げたようである。そして、11~12行め「中学校の図工・美術の教科書で、白馬の生徒の作品を/入れない社はないくらいになっていた。」
 この辺りの詳細は「白馬の中学校三十年史」編集委員会 編集『白馬の中学校三十年史』(1977年11月・白馬中学校・728頁)や白馬村立白馬中学校五十周年記念誌編集委員会 編集『わが学び舎 白馬中学校の五十年』(2009年3月・白馬村立白馬中学校・215頁)を見れば詳細が分かると思うのだけれども、この辺りはむしろ地元の人が掘り起こして顕彰すべき事柄だと指摘して置こう。
 さて、12月20日付(091)に引いた「はじめに」に「白馬での教員生活二十一年間」とあったが、最後に1行分空けて最後の纏め(136頁6~14行め)の冒頭、6~8行めにも、

 白馬に二十一年、最初に教えた生徒の子供に中学に入ってくるにおよんで、母の生地で親族も多/く、それよりもさらに愛しい人々やすばらしい自然とも別れて、障害児の教育に入ることにした。/村の人々の半分は、なんらかの形で私に教わったことになる。長い白馬であった。

とある。すなわち白馬村にいたのは昭和43年(1968)3月までで、転任先は長野県松本ろう学校だったようだ。「松本ろう学校 第32回 はと祭 同窓生作品展2002年10月12日(土)13日(日)」に「‥‥、去年12月亡くなった画家の元教諭:石沢清先生の絵(遺作)も展示しました。」と見える。
白馬の歴史物語
【1】ある行人塚の話
 田頭にある行人塚の由来。
【2】四人の孝子
 徳川家治の頃に松本藩から褒賞を受けた四ヶ庄の孝子4人の紹介。新田の弥右衛門、堀之内*1の七左衛門、飯森の勝右衛門、新田のたよ。
【3】木地師・曲物師たち
【4】白馬の天と地と
 武田信玄山県昌景と、塩島城の塩島勝雄・祐輝・昌賢兄弟。「天と地と」は海音寺潮五郎の小説に因む。
【5】佐野右衛門の嘆願
 貞享騒動の中萱嘉助と交際のあった佐野村の佐野右衛門の年貢金納の嘆願(勝訴)。
【6】喜平次の建築
 神社建築を得意とした菅(菅入)の横田喜平次。
【7】佐野坂の道しるべ観音
 佐野村の庄屋文五郎が建てた三十三観音の石仏。
【8】八方池の雨ごい
【9】百姓一揆赤蓑の騒動
 172頁11行め「 文政八年(一九二五年)十二月十四日におこり、十六日から十七日にかけて静められている。‥‥」とあるが、文政八年は西暦1825年。(以下続稿)

*1:143頁11行め「掘の内」となっている。