・黒部奥山と奥山廻り役
昨日の続き。
「第一章 黒部奥山と奥山廻り役」の扉まで頁付がない。1~2頁、小島烏水「序」は2頁15行め「昭和十四年秋季皇霊祭の佳日」すなわち昭和14年(1939)9月24日付、3頁、中島正文「小 序」は13行め「昭和十四年十月二十日」付。10~11行め、
本書は、昭和十三年から本年迄、日支事變下の山岳誌上に三回に渉つて掲載された其別刷を以つて合冊したの/で、‥‥
とあって初出が日本山岳会の機関誌「山岳」であったことが分かる。4~221頁はこの初出の影印覆刻である。
これについて廣瀬氏は〈編集後記〉589頁11~12行め、
「黒部奥山と奥山廻り役」をはじめ、氏の不滅の業績たる山岳史研究論文を見たいと熱望する人は少なくないが、/その抜刷はもとより、掲載誌『山岳』の古い号も、容易には入手しえぬ実情である。‥‥
と述べていたが、今は「日本山岳会」HPの「機関誌「山岳」バックナンバー」にて閲覧することが出来る。
すなわち4~85頁「黒部奥山と奥山廻り役㈠」は「山岳」第三十二年第一號(昭和十二年十一月二十五日印刷・昭和十二年十一月 三 十 日發行・定價金參圓・166頁)8~77頁に掲載されていた。一部組み直してあるのは破損や汚れがある箇所であろう。頁数が異なるのは、初出誌では図版が別刷で頁付がないからで、
・21~22頁=初出24・25頁の間
・29~30頁=初出30・31頁の間
・35~36頁=初出34・35頁の間
・41頁=初出38・39頁の間(裏は白紙)
・46頁=初出42・43頁の間(裏は白紙)
・51頁=初出46・47頁の間(裏は白紙)
・64頁=初出58・59頁の間(裏は白紙)
・75頁=初出68・69頁の間(裏は白紙)
・80頁=初出72・73頁の間(裏は白紙)
と12頁分頁付が増えているからである。
4頁(初出8頁)題と「はしがき」。
5頁(初出6頁)1~9行め「目 次」。頁は示されていない。
10行め「黒部奥山の研究」――この論文は2つの章から成るがその1章めで、5つの節に分かれる。11行め「一、奥 山 の 濫 觴」、18頁(初出22頁)4行め「二、奥山の地境と名稱」、67頁(初出61頁)4行め「三、奥山の國境と山道」、81頁(初出73頁)10行め「四、奥 山 の 森 林」。
85頁(初出77頁)12行め、下寄せで「(一二、五、一五 於越中津澤杏子文庫) 」とある。
87~171頁「黒部奥山と奥山廻り役㈡」は「山岳」第三十三年第一號(昭和十三年九月二十五日印刷・昭和十三年九月 三 十 日發行・定價金參圓・219頁)1~81頁に掲載されていた。
87頁(初出1頁)題と「目 次」。頁は示されていない。
88頁(初出2頁)2行め「五、奥 山 の 諸 相」この節はさらに4つ分かれる。89頁(初出3頁)9行め「一、平*1(高原)」、94頁(初出8頁)6行め「二、地 獄(温泉)」、100頁(初出14頁)9行め「三、か ね 山(鑛山)」、107頁(初出19頁)5行め「四、本 草」
110頁(初出22頁)8行め「奥山廻り役の研究」2章めでこれも5つの節に分かれる。9行め「一、奥山廻り役の職制」、137頁(初出47頁)13行め「二、奥山廻りの山詰番」。
図版・挿図の位置(すなわち初出と再録の頁のズレ)は以下の通り。
・86頁=初出「目次」2頁と1頁の間(裏は白紙)
・103~104頁=初出16・17頁の間
・121~122頁=初出32・33頁の間
171頁(初出81頁)15行め、下寄せで「(一三、六、一五、於越中津澤杏子文庫) 」とある。
172~221頁「黒部奥山と奥山廻り役㈢」は「山岳」第三十四年第一號(昭和十四年 九 月十七日印刷・昭和十四年 九 月二十日發行・定價金參圓・197頁)77~124頁に掲載されていた。
172頁(初出77頁)2行め下寄せで「中 島 正 文」と、㈠㈡では削除されている名前が残っている。3~8行め「目 次」、9行めは改めて章題を示し、10行め「三、奥山盗伐事件と其始末」、191頁(初出94頁)16行め「四、山奥役廻の人々り」の目次172頁6行め「四、奥山廻り役の人々」――「凡 例」の2項め、5~7行め、
二、本書はすべて中島氏の発表されたままに版を組んだ。従って昭和前期の文は歴史的仮名遣い、昭/ 和後期の文はおおむね現代仮名遣いとなっている。ただし、誤植であることが明白な場合にかぎり、/ これを修正した。
とあるのだが、目次によって「誤植であること」は「明白な」のだから、ここは修正すべきだったろう*2。
205頁(初出108頁)11行め「五、奥山廻り役の記録と繪圖」――これは㈠の目次では5頁9行め「奥山年表と關係舊記解説」と云う章になっていたが年表を省いて節に降格させたようである。
図版は・176~177頁=初出80・81頁の間(裏は白紙)。
221頁(初出124頁)16行め、下寄せで小さく「(一三・三・一〇・於越中津澤杏子文庫)」とある。㈡よりも前の日付になっているが初出誌の刊行時期からしても昭和13年(1938)ではなく昭和14年(1939)だろう。(以下続稿)
【2022年1月2日追記】当初「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(190)」と題していたが、余りにもそちらに関わらないままになったので記事の題を書名に改めた。