瑣事加減

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湯口康雄『黒部奥山史談』(1)

・湯口康雄『黒部奥山史談』一九九二年十一月二十日発行・定価三、〇〇〇円・桂書房・257頁・A4判上製本
 著者の湯口康雄(1936~2013.11)については、奥付の上にある「著者略歴」に、

湯口康雄*1
昭和十一年  富山県に生まれる
昭和三十二年 富山大学教育学部修了
サンナビキ谷、餓鬼谷等、主に黒部の山と/谷に足跡を印す。
主  著   『黒部雑記』(昭和四十八年)
現  在   日本山岳会会員
住  所   富山県下新川郡朝日町殿町/‥‥


 最後の1行は番地なので省略した。人となりについては「公益社団法人日本山岳会 富山支部会報」第95号平成26年1月30日・16頁)14~15頁に寄せられている2つの追悼文が参考になる。15頁4行めまでが藤條好夫「湯口康雄さんを偲ぶ」、残りが佐伯郁夫「追悼」である。佐伯氏の追悼文は公益社団法人日本山岳会機関誌「山岳」第百九年(通巻一六七号。二〇一四年八月十五日発行・価三五〇〇円・日本山岳会・470+A24頁)329~367頁「追悼」に、一部改稿して349頁下段4行め~351頁上段「湯口 康雄さん」として掲載されている。
 昭和11年(1936)の早生まれで昭和32年(1957)に大学を卒業、まづ魚津市立片貝小学校(富山県魚津市島尻818番地)に赴任、最後は小中学校の校長を歴任した。
 以下、富山県立図書館郷土資料情報総合データベースや国立国会図書館サーチ等によって、著述目録を示して置こう。殆どが未見、飽くまでも手控えとしての作成である。本書に収録されているものは頭に〇を打った。
〇「僧ヶ岳の入道――農事のこよみ――」「北日本新聞」1961年5月17日夕刊
〇「立山トンネルを夢見た男」「北日本新聞」1961年6月12日朝刊、5頁
・「毛勝岳北面 東又本谷・滝倉谷 一九六一年七~九月の記録」「岳人」171号(1962年7月・東京中日新聞社)89~91頁
〇「黒部の古道」「岳人」182号(1963年6月・東京中日新聞社)136~138頁
・「朝日岳より姫川へ 1963年4月の記録」「岳人」190号(1964年1月・東京中日新聞社)67~69頁
・「積雪期毛勝山西面 東又谷・南又谷ベースとして」「岳人」202号(1965年1月・東京中日新聞社)66~69頁
〇「越中駒ケ岳の雪形」「岳人」205号(1965年4月・東京中日新聞社)62~63頁
・「白馬岳横断 黒部から清水岳を経て」「岳人」220号(1966年5月・東京中日新聞社)69~71頁
・「黒部・餓鬼谷 1964年7月-8月」『岳人講座 3 夏山』(1966年6月・東京中日新聞出版局)348~353頁
・「片貝川南又谷支流小沢 1961年11月の記録」「岳人」225号(1966年9月・東京中日新聞社)73~75頁
・「厳冬期毛勝山西北尾根」「岳人」229号(1966年12月・東京中日新聞社)128~130頁
・「黒部・黒薙川周辺 白馬以北の西面について」「岳人」246号(1968年3月・東京中日新聞社)25~28頁
〇「黒部側より白馬岳へ 一八九五年八月の記録からの考察」「岳人」263号(1969年6月・東京中日新聞社)66~69頁
・「野坊瀬谷のことなど」「岳人」266号(1969年8月・東京中日新聞社)46~48頁
〇「ふたりの源次郎 源次郎尾根のこと」「岳人」272号(1970年2月・東京中日新聞社)104~105頁
・「毛勝山の雪渓」「岳人」275号(1970年5月・東京中日新聞社)44~47頁
〇「蛇石について」「岳人」278号(1970年8月・東京中日新聞社)102~105頁
・「剣岳北方稜線 厳冬期の縦走をめぐって」「岳人」282号(1970年12月・東京中日新聞社)22~24頁
〇「黒部の漁師助七 音沢村の人びと」「岳人」282号(1970年12月・東京中日新聞社)106~109頁
〇「薬師岳をめぐって 登山史の一ページ」「岳人」287号(1971年5月・東京中日新聞社)140~143頁
〇「黒部雑記(1)(古い山みちをめぐって)」「岳人」298号(1972年4月・東京中日新聞社)177~181頁
〇「黒部雑記(2)(古い山みちをめぐって)」「岳人」299号(1972年5月・東京中日新聞社)196~199頁
〇「黒部雑記(3)(古い山みちをめぐって)」「岳人」300号(1972年6月・東京中日新聞社)276~279頁
・『黒部雑記』(1973年7月・北日本出版社)

〇「山廻り足軽竹内家の人びと(黒部溪谷)」「岳人」314号(1973年8月・東京中日新聞社)82~83頁
〇「黒部懐古 河東碧梧桐の書簡」「岳人」326号(1974年8月・東京中日新聞社)198~200頁
〇「黒部の山案内人-下立村の人びと-」「山岳」第69年(1975年4月・日本山岳会)133~140頁
〇「「枕雲嗽雪」の扁額――露伴漱石――」「北日本新聞」1975年5月27日夕刊
〇「ザラ峠のウェストン」「岳人」336号(1975年6月・東京中日新聞社)202~203頁
〇「古地図瑣談 白山・立山・剣・黒部への推理」「岳人」344号(1976年2月・東京中日新聞社)198~200頁
・「境川」「笹小俣谷」富山県教職員山岳研究会・富山県高等学校体育連盟山岳部 編『とやま百川』(1976年3月・北日本新聞社
〇「「劔の大瀑行」余聞」「山 日本山岳会会報」第372号(1976年6月)2~3頁
〇「「立山新道」のこと 明治初年の開通社」「岳人」350号(1976年8月・東京中日新聞社)202~203頁
〇「唐松・白馬・犬ヶ岳――ありし日の山名考――」「岳人」363号(1977年9月・東京中日新聞社
〇「ある山村 「有峰村絵図」をめぐって」「岳人」364号(1977年10月・東京中日新聞社)206~207頁
〇「黒部の山案内人 瀬川栄吉と石部夫妻の交流-昭和初期の剣・黒部を舞台にして-」「岳人」387号(1979年9月・東京中日新聞社)184~187頁
〇「釜谷山の命名者・田部重治」「岳人」470号(1986年8月・東京中日新聞社)49頁
〇「『猫又退治之次第』をめぐって 黒部・猫又伝説遺聞」「岳人」523号(1991年1月・東京中日新聞社)170~174頁
〇「ダム湖は二つ計画されていた!(ある黒部開拓史)」「岳人」525号(1991年3月・東京中日新聞社)144~148頁
〇「黒部奥山廻り役の遺墨をめぐって 西鐘釣温泉界隈:」「岳人」536号(1992年2月・東京中日新聞社)150~152頁
〇「黎明期の剱岳 三ノ窓をめぐる人々-山田珠樹のことなど-」「岳人」537号(1992年3月・東京中日新聞社)154~158頁
・『黒部奥山史談』(1992年11月・桂書房・257頁)
・「八千八谷といわれる黒部・黒薙川の開拓者塚本繁松素描」「岳人」556号(1993年10月)135~138頁
越中の廃村 探訪編3「朝日町棚山」「北日本新聞」1994年3月1日朝刊14頁
越中の廃村 探訪編25「朝日町池ノ原」「北日本新聞」1994年9月11日朝刊15頁
・新刊紹介「廣瀬誠著『立山のいぶき――万葉集から近代登山事始めまで』」「山岳」第89年(1994年12月・日本山岳会)190~192頁上5行め
・「奥石谷」山村調査グループ 編『村の記憶』(1995年3月・桂書房)10~11頁
・「〔日本古書通信〕八〇〇号記念募集随筆古書通信と私(1)」「日本古書通信」61巻3号(1996年3月・日本古書通信社
・「〔富山県〕 16-2 生き生きと活動する生徒の育成」文部科学省教育課程課・幼児教育課 編「初等教育資料」650号(1996年5月・東洋館出版社)84~85頁
・「幕末の”黒部山岳警備隊”の新事実 池田屋騒動以後の黒部奥山廻の厳戒体制」「岳人」604号(1997年10月)162~166頁
・「鏡面の岩壁が太陽反射 初雪山の別称 大平集落からは「光山」」「北日本新聞」2000年11月9日朝刊25頁
・「武田久吉の書簡をめぐって――吉澤庄作との交流――」「山岳」第108年(2013年8月・日本山岳会)148~154頁

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 最後に書評など紹介記事と、上に挙げた以外の追悼記事を挙げて置く。
・「光放つ案内人たちの記録 湯口康雄著「黒部奥山史談」を読む」「北日本新聞」1993年1月19日朝刊9頁
・どんな本だな「日本山岳会会員 湯口康雄(朝日町)黒部関連の古資料」「北日本新聞」1995年10月9日朝刊6頁
追想 ありし日「元小中学校長 湯口康雄(朝日町殿町)」「北日本新聞」2014年7月21日朝刊9頁
・「湯口康雄氏」「日本山岳会富山支部創立70周年記念誌」(2018年3月・日本山岳会富山支部)169~170頁
 今後、気付いたものも、ここに追加して行くこととする。(以下続稿)

*1:ルビ「 ゆ ぐちやす お 」。