瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(04)

小池壮彦『怪奇事件の謎』(3)
 道了堂について、まづ小池氏の記述、2016年刊『怪奇事件の謎』を主に、1996年刊『東京近郊怪奇スポット』を参照する形での確認から始めておりますが、今回は前回の『怪奇事件の謎』からの引用に対応する、『東京近郊怪奇スポット』の記述を見て置きましょう。9頁下の〈怨念の系譜〉の前半、2~8行め、

 昭和48年から翌年にかけて、極めて特異な殺人事件が世間の注目を浴びて/いた。立教大学のO助教授が教え子を殺害し、遺体をどこかに埋めたという/事件である。Oの死によって被害者の遺体発見が難航したことで知られるこ/の事件だが、当時殺された女子大生の亡霊が自らの埋まる場所に現れていた/などの証言があり、その後も亡霊の目撃報告は続いていた。
 女子大生の遺体が遺棄されていた場所は道了堂の近くであった。私たちは/結果的に当初の予定通りの現場に足を踏み入れていたことになる。‥‥


 小池氏が「現場に足を踏み入れ」たときのことは後で見ることとしますが、しかし前回述べたように同じ八王子市鑓水であっても多摩美術大学の近くで「道了堂の近く」ではありません。いや、そもそも『東京近郊怪奇スポット』では道了堂を「八王子市片倉」町と、隣接する地区として紹介していたのです。そうすると、小池氏は現場(助教授の恩師の別荘)の位置を把握していたのだろうか、と云う疑問が生じます。『東京近郊怪奇スポット』ではそこに行こうとして道了堂の方に行ってしまったような按配でした。しかしその後も、屍体遺棄現場の方に辿り着いたような様子はありません。「道了堂」の方がメインになってしまって、教え子殺しの方はその添え物になって探索の対象から外れてしまったように見えます。
 いえ、〈怨念の系譜〉の最後、12~16行め、

 道了堂に出るといわれるのは、寺守の老婆の亡霊である。この老婆は今か/ら30年余り前、本堂で何ものかに殺害されているのが発見されたという。そ/の後この付近からすすり泣く声がするのを地元の人たちが聞くようになり、/不遇な生活の果てに惨殺された老婆の怨念が廃寺にこもったとうわさされ/た。以後、怪奇スポットとして急速に知名度を高め、今日に至っている。

とありますから『東京近郊怪奇スポット』執筆時点では「道了堂に出る」のは老婆で、女子大生は「道了堂の近く」の屍体遺棄現場の辺りに出る、と云う認識だったようです。かつ、立教大学助教授教え子殺しによって道了堂の件も有名になった、と云う筋も引いていないようです。
 それでは次回、小池氏が道了堂を訪ねたことが、何故「結果的に当初の予定通りの現場に足を踏み入れていたことになる」のか、そもそも道了堂を訪ねることになった経緯を、見て行くこととしましょう。(以下続稿)