当ブログの記事は、ある程度材料が集まってから書くことが殆どである。そして、一応、何となく記事・資料の並べ方(流れ/構成)を考えて書き始める。しかし、書き始めてしまうと余力がなくなるので効果的な運びを考える余裕もなく取り上げてしまうことも多い。流れ・構成を考えて取り上げずに置いて、何となくそのままになっている材料も多い。現在調べを進めている道了堂以外にも、赤マント流言、白馬岳の雪女、信州の伝説集、青木純二の伝記など、かなり材料が溜まっているのだけれども、身体は1つなので如何ともし難い。
Twitter で要点だけ、或いは現時点での見当だけでも小出しに書いてしまえば、簡単である。しかし、急に思い付いて書いたことは、風呂や寝床で思い付いた妙案と同じで、その程度の、急に思い付いたようなものでしかないと思っているので、どうも、そんなものを垂れ流そうと云う気になれないのである。
もちろん、ブログであゝだこうだと文章を考えながら書いているから間違いが生じない訳ではない。若干マシになるかも知れない程度である。ならば、やはり気付いたことはその時点で Twitter でざっと概要だけ報告して行けば簡単なのではないか。しかしながら、ただでさえ毎日書くことにしていて拙速気味なのに、より拙速になってしまいそうだと思うのである。そんな訳で、Twitter「瑣末亭」の方はしばらく「ブログ告知限定」にして置く。
それはともかく、それなりに遺漏なく考えたつもりでも、材料が増えれば、以前の、少ない材料で付けた見当を改めないといけなくなる。「過ちて改めざる、是を過ちと謂ふ」――間違うのは仕方がない。条件が変われば再考すれば良いのである。だのに、「過ちては改むるに憚ること勿れ」――別に憚っている訳ではないのだが、なかなか訂正を出せない。そこは Twitter を使うべきなのだろうか。
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さて、これまで馬場喜信の絹の道に関する本格的な著述はかたくら書店新書45『浜街道』が最初で、それが法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』所収「浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」で論文化された、と考えていたのだが、これは誤りで、明確に示されている訳ではないのだが、原形は次の本に示されていたことが分かった。
・歴史の道調査報告書 第四集『浜街道』一九九六年(平成八)三月二十九日 発行・東京都教育委員会・前付+113頁・A4判並製本
・歴史の道 調査報告書集成 21『関東地方の歴史の道<11> 東京 2』2008年11月30日 第1刷 発行・定価28,000円・海路書院・481頁・菊判上製本
451~453頁、服部英雄「関東地方の歴史の道調査報告書を再刊するにあたって」によれば、453頁4~5行め、
貴重な成果を折り込んだ報告書であるが、官公庁の刊行物だから発行部数が少なかった。大きな成果を上げたにもか/かわらず、巷間にその存在は余り知られていないのはそのためだろう。‥‥
とあり、大学図書館にも揃いで所蔵されていないことを指摘し、9~11行め、
‥‥。もともとの刊行部数が少なかったため、インターネット『日本の古本屋』でも、おどろ/くほどの高価格になっているし、そもそも求める書を得ること自体むずかしい。このたびの復刊の意義はきわめて大き/く、これによって閲覧が容易になればと願っている。
とのことであるが『歴史の道調査報告書集成』も高価である。かつ、残念ながら『歴史の道調査報告書集成』は原本をそのまま再現している訳ではない。
以下『浜街道』に即して見て置こう。『歴史の道調査報告書集成』は『集成』と略すこととする。
まづ横縞の透かしの入ったクリーム色の扉があり、カバー表紙と同じ文字が縮小されて入る。中央やや下に江戸時代の版本か写本の、単色の絵を載せているのは同じだが、カバー表紙では山を描いたものだったのが扉では松並木になっている。
本文はコート紙で、1頁(頁付なし)扉に〔編集委員〕3名と収録内容、2頁(頁付なし)は下部に横組みで国土地理院の地図複製の承認番号、3頁(頁付なし)「目 次」、5頁(頁付なし)は「浜 街 道」の扉で、明朝体縦組みで上部中央に大きく標題、右上隅に「歴史の道調査報告書 第四集」、左下にやや大きく「東 京 都 教 育 委 員 会」とある。ここからが原本を再録した部分で、原本では淡い水色の模造紙に刷られていた。
原本の再録されていない部分、まず表紙だが灰色のやや厚い紙が使われており、表紙には同じ文字を標題をやや縮小して入れていた。標題を縮小しているのは、下部中央やや左から右に『新編武蔵風土記稿』の八王子宿の図(88~89頁に収録)の一部を青紫色で刷っているからで、背表紙にはないが裏表紙の左から中央やや右に掛けて続いている。他に文字は背表紙にゴシック体で上半分に「 歴史の道調査報告書 第四集 浜 街 道」とあり下部に明朝体でやや小さく「東 京 都 教 育 委 員 会」とあるのみ。見返し(遊紙)は白でやや厚く、続いて淡い水色の扉。
原本は以下、しなやかなアート紙になり、しばらく頁付のない前付が10頁あるが『集成』は7頁(頁付なし)東京都教育委員会「序」、8頁(頁付なし)「例 言」、9頁と11~14頁(頁付なし)口絵写真、15~16頁(頁付なし)「目 次」となっている。
なお『集成』の10頁(頁付なし)は9頁の写真の横組みの説明で、原本では9頁の写真はセピア色、すなわちカラー印刷だった。すなわち『集成』ではカラー刷は再現されていないのである。
次の頁から原本には「―1―」と最下部中央に頁付があるが『集成』では「―1― 17」と、ノド側に『集成』としての頁付を添えている。
村上直「あ と が き」の頁付は「―113― 131」で、当初16頁のズレだったのが18頁になっている。これは、原本では「―64―」と「―65―」の間に、黄緑色の模造紙に刷った「史 料 編」の扉が、頁付なしで挟まれていたのを、コート紙で81~82頁(頁付なし)に勘定しているからである。
他にそのまま再現されていない箇所としては、52頁と55頁の間の折り込み地図が挙げられる。見開きでA4判5枚分、頁付なし。『集成』では69頁に左を上にして縦長に縮小して収め、全く文字は読めない。下に明朝体横組みで「この頁の拡大地図は巻末の封筒にあります。」とあり、抱き合わせて収録されている「甲州道中」「佐野川往還」とともに収められているが、普通紙(21.5×78.5cm)で単色刷、原本では朱色で入っていたルートが黒になっているのは、それでも分かるが、近隣の神社仏閣・石造物や史蹟等も朱で「●」にゴシック体算用数字で番号を添えていたのは、原本では黒で刷られている地形図の道路・等高線・市街地等と重なっていて若干読みづらかったのが、黒で重なってしまって読み得なくなっているところが幾つもある。
105頁「一七、原町田村絵図写」は折込みでカラー印刷だったのが『集成』では単色刷で123~124頁に分割し、原本の、左下にあった頁付「―105―」を省き、いている。横に長かった(解説)を124頁に纏めている。
107頁「一八、横浜周辺外国人遊歩区域図」も折込みカラー印刷だったのが『集成』では単色刷で125~126頁に分割、原本では、左下にあった頁付「―107―」を省き、(解説)を126頁に纏めている。なお、125頁右上に縦組みで図の題があるべきなのだが手違いで落ちている。65頁(『集成』83頁)に「史 料 目 次」があるから図名は分からなくはない。なお、これらの図を収録する88~107頁の部立ては88頁(『集成』106頁)には「Ⅲ 絵 図 の 部」、関東の「目次」(『集成』16頁12行め)とこの「史料目次」には「Ⅲ 絵図・写真の部」とある。
『集成』は132頁(頁付なし)に奥付を載せるが、原本では113頁の裏は白紙でここまでがアート紙、そして次の、表紙見返しでは遊紙であった紙の裏側に奥付を刷っている。なお、表紙や扉には「東京都教育委員会」とあるが、奥付には「東京都教育委員会」の名称はなく「〈編集/発行〉 東京都教育庁生涯学習部文化課」とある。(以下続稿)