瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(73)

 前回問題にした、道了堂の向拝の屋根がいつから崩れていたかだが、次の本に掲載される写真の時点で崩れていたことが分かる。
・カラーブックス564『武蔵野歴史散策』昭和57年3月5日 発行・定価 500円・保育社・151頁

 表紙には「加藤 蕙・坂口よし朗 共著」背表紙には「〈加藤  蕙/坂口よし朗〉共著」とあるが、4頁ある前付(頁付なし)の1頁め「はじめに」の最後、15行めの(加藤 蕙)の「蕙」は草冠に「恵」になっており、奥付の上にある顔写真付の紹介文も同じく草冠に「恵」で「加 藤  蕙(かとう けい)」とある。なお、「はじめに」12行めに「写真を担当した坂口よし朗氏」とあって加藤氏が文章、坂口氏が写真を分担したことが分かる。奥付裏から1頁に100点ずつ4段組で6頁(頁付なし)カラーブックスの目録があるが、6頁め、3段めの567.まで入っていて本書は「564. 武蔵野歴史散策〉・〈加 藤  蕙/坂口よし朗〉共著」と見えるが、こちらは草冠に「惠」を無理に組み合わせたものとなっている。そう思って見ると表紙と背表紙の「蕙」も拵え物のようである。なお6頁め4段めは「●カラーブックス英文版●」38点。
 カバーは横縞の凹凸の入った透明のカバーが掛かっていたはずである。私は幼稚園児から小学校の低学年の頃に、仏像に熱中していた時期があってカラーブックスの古寺や仏像を取り上げたものを10冊以上持っていた。小遣いを貯めれば買える値段で、解説も難し過ぎず、写真は入江泰吉など斯道の第一人者が撮影していて『仏像』などはぼろぼろになるまで眺めていた。最後に買ったのは『火山』だったが。
 それはともかく、見開き(遊紙)があって前付の2頁めは「目  次」は94頁まで、3頁めは略地図、4頁めは右上に黄土色で表紙と同じ人物が散策する写真を刷って*1右下隅に「《表紙写真》盛秋の平林寺山門」と明朝体縦組み。ここまでは遊紙ともども白い上質紙で1頁めと3頁めも淡い黄土色と2色刷であった。
 1~96頁はアート紙で、1頁はカラー、2~3頁はモノクロ、4~5頁はカラー、と交互にカラーとモノクロの見開きが続き、最後の96頁はカラーである*2。以後は再び上質紙になって、97頁(頁付なし)上は恐らく深大寺の本堂の写真(62頁上と同じ建物に見える)、下は「武蔵野に生きた人たち」と題する9篇の解説風読物の題と、最後に3字下げで「さくいん」が示された目次。98頁以降の本文は2段組でところどころ白黒写真が挿入され117頁及び140頁は全頁写真(頁付なし)になっている。151~150頁「さくいん」は横組み左右2列で左開き。151頁の裏、奥付の前の頁(頁付なし)には囲みで「カラーブックス〝歴史散策〟シリーズ」10点の目録、それぞれ1行に番号と標題・著者・23字の紹介文。
 最後の目録は7頁あって7頁めはやはり4段組で「◆世界の学者から賞賛されている保育社の原色図鑑」の目録。
 14~19頁、2章め「八王子の古城跡」で16~17頁のカラー見開きが4節め「八王子城」である。なお、15頁上左の白黒写真「城山に立つ石碑」は「史蹟 八王子城跡」とあって八王子城跡のものである。そして18頁と19頁(頁付なし)の見開きが5節め「絹の道」で、18頁上は「多摩のシルクロード、絹の道」と下に添えた、「絹の道」碑とその前を西に続く道を写した写真、下の本文は「鑓水商人」*3が横浜開港後に勃興したように書かれており、また、後半12~18行め、

 この神奈川往還が「絹の道」で、大塚山の麓の/道了堂から鑓水までの間に痕跡をとどめている。/一・五㌔ほどの旧道沿いには石垣をめぐらした/豪商の屋敷跡、異人館跡があり、往昔をしのぶ/よすがとなっている。
 絹の道・八王子市鑓水・八王子駅北口より橋本行/ バス、鑓水入口下車、徒歩一〇分。

と大塚山の頂上にある道了堂を「麓」と誤っている。
 19頁上の写真は「荒れはてた鑓水道了堂」と下に添えた、道了堂を正面から撮影した写真である。――これまで当ブログでも取り上げて来た、1970年代の映像や写真では、壁は落ちていたものの屋根はほぼ損傷なく*4往時の威容を偲ばせていたが、この頃、向拝部分の屋根が崩れていたことが分かる。
 道了堂の映像・写真を探索していて、1970年代のものはかなりの数が見付かったのに、1980年代のものは昨日取り上げたかたくら書店新書20『絹の道』掲載の藤森治郎撮影のものだけで、それも側面と背面を写したものだけだったのを訝しく思っていたのだが*5、この坂口氏撮影の写真(白黒のため、残念ながら時期は、広葉樹の葉が落ちている季節としか分からないが)により、1980年代の道了堂は、向拝の屋根の崩落により、正面からはちょっと無惨で、撮影しづらいものとなっていたらしいことが分かる。プロの写真家で往時の道了堂のことを知らず、特に思い入れのない坂口氏なればこそ冷徹な記録が出来たが、地元の住民にとっては見るに忍びないものであったろう。
 向拝の屋根について、もう少し詳しく見て置こう。左側はまだ若干持ち堪えているようであり、藤森氏撮影の写真でも存しているように見えるのだが、右側はこの坂口氏が撮影した時点で完全に崩れていて、美しく葺かれていた銅板も剥げており、しかし落下はせずにまだぶら下がっているような按配になっているので、丁度堂宇の正面入口の辺りを剥き出しの野地板が横板を何枚も打ち付けた壁のようになって塞いで、堂内が全く見通せなくなっている。1970年代の写真――しっかりとした屋根の下、壁が殆ど落ちて柱だけになって、向こうの明るい空が見通せる姿は、哀れにも美しかったが、本書の写真ではその明るさも失われて、全く無残、陰惨な印象しか与えない。
 なお、19頁下の写真については、別に検討することとする。(以下続稿)

*1:薄い色なので明確ではないのだが、表紙と同じ人物に見える。

*2:93頁は本文のみなのでカラーになっていない。

*3:ルビ「やりみず」。

*4:3月24日付(18)に見たように、大棟の鬼瓦(?)が片方落ちているだけだった。

*5:そもそもは半年程前にかたくら書店新書20『絹の道』を見たことが、道了堂について探索する切っ掛けとなったのだが、その後集めた資料に1980年代のものが少なく、道了堂を写した写真は1970年代のものばかり、私は本書に気付くまで1980年代に正面から写した写真を見たことがなかった。