瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(80)

井出孫六 編『日本百名峠』(2)
 本書は『日本百名山』の模倣なのだが、名数好きな人が多いためか、Wikipedia にも「日本百名峠」項がある。100の峠が一覧表になっていて便利だが「『日本百名峠』(にほんひゃくめいとうげ)は、井出孫六が1982年に発表した随筆の書名。また、同書で紹介された100の峠も指す。」と云った説明で、これでは深田久弥のように1人で選んで1人で書いたみたいだ。「参考文献」は「・井出孫六編 『日本百名峠』 桐原書店、1982年」だけで新装版には触れていない。尤も、ここに「編」とあるから「井出孫六が‥‥発表した」のは「随筆の書名」で、個々の「随筆」は井出氏が書いたものに限らないらしいことは察せられるのだけれども、これでは峠に纏わる随筆100篇を集めたアンソロジーのようにも思えなくもない。
 本書で、こう云った辺りの事情を簡潔に纏めてあるのは前回も触れた、新装版巻末の、井出孫六「新装版あとがき」である。井出氏の著書『歴史紀行・峠を歩く』に目を止めた、桐原書店社長山崎賢二(1929.5.5~2000.3.21)が、364頁10行め~365頁1行め、

‥‥、日本の百名峠をまと/めてみないかと言ってくれたのが、本書が生まれるきっかけだった。深田/久弥さんの驥尾*1に付して、百名峠をまとめたいという思いは強かったが、/それは生涯をかけるような仕事だ。山崎さんはいますぐにという。山崎さ/んのことばにわたしが引かれたのは、多くの峠が新道の布設やトンネルの/掘鑿などで、急速に草むらのなかに消えかけていたことが気になっていた/からである。そこで全国の名峠をよく知る方々に集まっていただいて手わ/けして歩いていただくことになったのだが、まず百の峠を選ぶ作業から始/【364】めなければならなかった。


 そこで363頁3~4行め「数千の峠から百にし/ぼるところから編集作業」を始め、5~6行め「山崎さんの督励もあって原稿のでき上り」が「早/かった」と云うのだが、編集に要した期間は、同様に編集の経緯を述べた、初版19~24頁・新装版4~9頁、井出孫六「峠に立つ ―序にかえて―」の初版23頁9行め~24頁17行め「㈢」=新装版8頁8行め~9頁16行め「(三)」によって、100の峠の選定が初版23頁22行め・新装版8頁20行め「一年前」であったとあって、末尾(初版24頁18行め・新装版9頁17行め)に「一九八二年三月十五日」とあるから昭和56年(1981)春から、以来、初版24頁6行め・新装版9頁5行め「あるときは蟬しぐれを背に、あるときは梅雨にぬれ、あるときは霜を踏んで」執筆者たちが全国の峠を歩いた、と云う訳で、記載内容は(一部昭和57年の初めまで掛かっているかも知れないが)ほぼ昭和56年のものと見て良かろう。
 なお、深田久弥日本百名山』には「峠に立つ」でも触れているが、桐原書店の山崎賢二社長のことは「峠に立つ」では触れていなかった。
 その執筆者については、初版は347~362頁「日本の峠一〇〇〇」まで頁付があって、1頁白紙、その裏、奥付の前の頁に「 執筆」12名と「 写真」1名が顔写真入りで紹介されている。1段に3人ずつで大きな枠(4.3×4.1cm)で1人分の見出しできっちり5段組。なお「目次」には「著者紹介」とある。新装版は344~362頁「日本の峠一〇〇〇」に続いて363頁「■執筆」12名と「■写真」1名、4段組で初版以後物故した人物も何人かいるのだが紹介文は同じ、顔写真は省かれている。
執筆」はまづ編者の井出氏、以下は50音順である。今後の検討材料にするため(生歿年)及び担当した峠の番号、執筆した峠の【数】を勘定して、示して置いた。
井出孫六(いで・まごろく)(1931.9.29~2020.10.8)
   1・3・30・68・99・100【6】
秋谷 豊(あきや・ゆたか)(1922.11.2~2008.11.18)
   2・25・26・45・58・65・66・67・69・98【10】
大滝重直(おおたき・しげなお)(1910.11.5~1990.7.4)
   19・21・22・28・29・31・35・47・53・54【10】*2
下重暁子(しもじゅう・あきこ)(1936.5.29生)
   59・60・73・74・75・76・77・90・91・92【10】
白石悌三(しらいし・ていぞう)(1932.12.20~1999.7.5)
   12・72・85・86・87・88・89・93・94・95【10】
高森忠義(たかもり・ただよし)(1932生)
   16・34・42・43・44・46・49・50・51・52【10】
田中澄江(たなか・すみえ)(1908.4.11~2000.3.1)
   32・41・48【3】
布川欣一(ぬのかわ・きんいち)(1932生)
   20・23・24・33・40【5】
藤崎康夫(ふじさき・やすお)(1936.3.30生)
   63・78・79・80・81・82・83・96・97【9】
真壁 仁(まかべ・じん)(1907.3.15~1984.1.11)
   4・5・6・7・8・9・10・11・13・14【10】
増永迪男(ますなが・みちお)(1933.7.9生)
   36・37・38・39・55・56・57・61・62・71【10】
山崎れいみ(1933生)
   15・17・18・27・64・70・84【7】
 10箇所を上限に、分担したことが分かる。井出氏の執筆は北海道と奄美・沖縄、そして御殿峠と洞ヶ峠である。すなわち、御殿峠そして絹の道(鑓水峠)には、かなり強い思入れがあったと云うべきで、実際、井出氏が編者だから選ばれたようにも思われるのである。(以下続稿)

*1:ルビ「 き び 」。

*2:「53 天城峠[あまぎ]」初版201頁下段10行め「天正十八年(一五七七)この半島は天領となって‥‥」は新装版183頁下段10行めでも訂正されていない。