瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(295)

北杜夫の赤マント(10)
 さて、例によって前置きが長くなりましたが、タヒチで北氏としばしば行動を共にしたH嬢こと畑中幸子が、北氏に「韓国人の医者」を訪ねるよう勧めたのです。この医者は何処にいたのかと云うと、文庫版67頁17行め~68頁2行め、全集170頁下段18~21行め、タヒチでT氏やH嬢に会ったときに彼らの旅程について、

 この人たちははじめ六人のグループでサモアからまわっ|てきたのだが、T氏は明日日本へ\帰り、/【67】H嬢だけが一人残|るのだそうだ。彼女はここで原地の言葉を覚え、スクーナ|ー船で一\ヵ月もかか/る僻地*1の島に渡るつもりだという。‥|‥

と説明しているように、タヒチの前にH嬢たち一行が滞在していたサモアで、会っていたのです。
11月19日追記11月14日付「北杜夫『南太平洋ひるね旅』(03)」に挙げた①初版(ポケット・ライブラリ)と②新装版の位置を「\」で追加した。77頁12~14行め。なお、章立てと頁については11月17日付「北杜夫『南太平洋ひるね旅』(06)」を参照。
 北氏はタヒチからフィジーに赴き、ニューカレドニアにて昭和37年(1962)の正月を迎え、東サモアアメリカ領サモア)を経て西サモア、そして東サモアからホノルルに戻り、そして帰国したようです。
 最後の訪問地・西サモアのことは、文庫版192~208頁*214 西サモアの幽霊など」全集202頁下段9行め~240頁「西サモアの幽霊など」、文庫版209~226頁「15 旅の終り」全集241~250頁「旅の終り」の、2つの章に記述されています。文庫版193頁13行め~194頁7行め、全集233頁上段10~22行め、【11月19日追記】①初版(ポケット・ライブラリ)と②新装版の位置を「\」で追加した。222頁2~10行め。

 ところでつい最近、南太平洋にもう一つ独立国ができた。|米領の東サモアから飛行機で四\十五/分海をへだてた西サモ|アである。ここは以前ドイツ領土だったのが、第一次大戦|の結果\ニュージ/ーランドの委任統治領となった。それが一|九六二年の正月元旦に独立をしたのであ\る。私が訪れ/る十|七日まえの話である。
 私はむろんそんなことは知らず、タヒチでH嬢からはじ|めて独立のことを聞いた。さらに\私の/興味を惹*3いたのは、|不定期船で渡るような僻地*4をのぞき、南太平洋で一番昔の|ままの状\態が残っ/ているのは西サモアだということであっ|た。
 H嬢たちは西サモアのはずれの小島に滞在した。そうい|う場所では、外来者はたいへんな\好奇/の的になる。‥‥


 北氏が西サモア(現・サモア独立国)のファレオロ飛行場(現・ファレオロ国際空港)に来たのは昭和37年(1962)1月18日と云うことになります。文庫版200頁4~6行め、全集236頁下段10~12行め、【11月19日追記】①初版(ポケット・ライブラリ)と②新装版の位置を「\」で追加した。228頁16行め~229頁2行め。

‥‥。西サモアでは私はな\るた/け目的をもたないことにしていたが、それでもアピア郊外にあるスティヴンソンの墓は\見ておき/たかった。‥‥

と云った心積りで、予約して置いたホテルで遅い昼食を済ませ、取り敢えず街をぶらついてみる気で外に出るとスコールが降りそうな空模様なので、文庫版200頁14行め~201頁10行め、全集237頁上段2~19行め、【11月19日追記】①初版(ポケット・ライブラリ)と②新装版の位置を「\」で追加した。229頁10行め~230頁7行め。

 雨を待つ間、私はドクター・ハンという人に電話をかけ|てみることにした。彼は韓国*5人の\医者/で、アピア市の病院|に勤めているが、 H嬢からもし西サモアへ行ったなら尋ね|てみろと\言われて/いたのである。
 ドクター・ハンは、私が日本人の旅行者だと知ると、い|きなりぺらぺらと日本語でこう言\いだ/【200】した。
「それはちょうどいい。いまアピアに三人、日本の人がき|てますよ。私がさっそく連絡しま\しょ/う」【229】
 まさか西サモアには日本人はおるまいと思っていた私は、|いささか狼狽*6した。私は、いず\れ会/うでしょうから、連絡|して頂かなくてけっこうですと言ったが、相手は私が遠慮|してい\るのだと/思って、
「私は明日から出張するのです。今夜私のところへいらっ|しゃい。日本の人たちにはさっそ\く連/絡しておきます」
 西サモアではぼんやりした休日を味わうつもりだったの|を、これでまた事情が変ってきそ\うだ/ぞと私は考えたが、|せっかく親切な申し出を断わるというわけにはいかなかっ|た。


 この「ドクター・ハン」は、当時、西サモアの首都アピアにいた、WHO の Tuberculosis Adviser だった Dr. Eung Soo Han で間違いないと思います。しかし、この人物の出身・学歴や、その後については十分調べることが出来ませんでした。(以下続稿)

*1:文庫版ルビ「へきち」。

*2:「目次」には「一九三」とあるが、192頁(頁付なし)の写真は2つとも西サモア

*3:ルビ「ひ」。

*4:文庫版ルビ「へきち」。

*5:文庫版ルビ「かんこく」。

*6:文庫版ルビ「ろうばい」。