瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(97)

 昭和32年(1957)に「絹の道」碑が建ち、これが昭和47年(1972)10月26日に八王子市指定史跡「絹の道」として公式名称のようになる頃から、7月31日付(93)に見たように新聞が「絹の道」を取り上げ、その盛衰を象徴するかのような道了堂の荒廃ぶりにも触れるようになっていた。
 この「絹の道」への注目は、もちろん書籍でも同様で、例えば次の本にも絹の道と道了堂についての記述がある。
・井上善治郎『まゆの国』昭和52年4月30日 第1刷発行・埼玉新聞社・239頁・B6判並製本
 ごく大人しい装幀のカバーが掛かる。装画は「庚辰夏日/新田德純画[印]」の落款のある猫絵。カバー裏表紙中央に2羽の鳩に「しらこばと選書 6」と添える。このシリーズ名は奥付にも「しらこばと選書 6」と示されていた。『しらこばと選書』は埼玉新聞社が刊行していた郷土史の叢書で、昭和50年(1975)から昭和56年(1981)に掛けて補訂版を含めて、次の8点が刊行された。
しらこばと選書 1『日光街道繁昌記』本間清利著、昭和50年9月(昭和55年4月補訂版)
しらこばと選書 2『幻の革命 秩父事件顛末記』浅見好夫著、昭和50年12月(昭和56年7月補訂版)
しらこばと選書 3『歴史と人と 埼玉の近代史から』上、埼玉新聞社編、昭和51年6月
しらこばと選書 4『歴史と人と 埼玉の近代史から』下、埼玉新聞社編、昭和51年6月
しらこばと選書 5『武州の力士』中英夫著、昭和51年10月
しらこばと選書 6『まゆの国』井上善治郎著、昭和52年4月
 シラコバトは昭和40年(1965)11月3日指定の埼玉県の「県民の鳥」である。
 本書には奥付にもカバーにも定価が記載されていない。しかし「しらこばと選書」で画像検索するに、帯の裏表紙側右下に記載があったようである。しかし本書の裏表紙側はヒットしなかったので定価は不明。
 見返し(遊紙)とモノクロ口絵「[生糸のできるまで]/(杉山光国氏撮影)」表裏を除く本文用紙はやや黄ばんでいるようである。
 1頁(頁付なし)扉、3~4頁(頁付なし)「目 次」
 5頁(頁付なし)「第一章 養蚕のはじまりとその歩み」の扉、6~44頁本文。
 45頁(頁付なし)「第二章 養 蚕 の 民 俗」の扉、46~82頁本文。
 83頁(頁付なし)「第三章 埼玉県蚕糸業史夜話」の扉、84~118頁本文。
 119頁(頁付なし)「第四章 近世の蚕糸技術『養蚕秘録』と『養蚕手引抄』について」の扉、120~133頁本文。
 135頁(頁付なし)「第五章 蚕糸の基礎知識」の扉、136~168頁本文。
 169頁(頁付なし)「第六章 埼玉県糸業史余話――事 件 と 人」の扉、170~226頁本文。
 227~229頁「おわりに」230~235頁「資  料」236~239頁「参考文献」。
 第三章の84~85頁「第一項 絹 の 道」が、埼玉県の生糸を幕末から明治に掛けて横浜に運んだルートについて、84頁6行め~85頁17行め、

 それは八王子に集結し、そこから横浜に出発するいわゆる/「絹の道」である。八王子市内から国道十六号で南下し、約三㌔/で御殿峠にいたる。ここで都道八王子―府中線に左に入ってバ/ス停で三つ目が鑓水*1である。ここに鑓水公会堂(旧南多摩郡由木村鑓水産業組合事務所)があり、ここから北、道了峠に至る一・/五㌔が八王子市指定の史跡「絹の道」である。ここから南、小/山町にかけて通称浜街道とよばれる都道があって、公会堂の横/には八王子道の道標が立っている。片や原町田、神奈川、藤沢、片や橋本、津久井、大山で、慶応元/年に建てられたこの道しるべは神奈川方向を示すとともに、大山信仰(阿夫利天神社)を示す貴重なも/のである。
 八王子市の建てた掲示板を見ながら道了峠を登ってゆくと、向かって右側に大きな石垣が見える。/【84】これがいわゆる鑓水商人といわれる大塚家一族の屋敷跡で、石垣の石は相模川から運んだものといわ/れる。ここに鑓水商人が勃興したのは上州、甲州武州の生糸が八王子に集り、八王子からこの道了/峠(道了堂の出来るまでは鑓水峠)を通って鑓水で集散したからである。(現在の国道十六号の御殿峠は明治二十四年に大改修された)
 そして地元の商人は三井家と姻戚関係になり、莫大な資本金をもとに生糸の買いつけ、横浜への売/込みを行ったのである。
 峠の頂上には道了堂(明治七年創設)があり、その道端に写真に見られる「絹の道」の碑が建ってい/る。
 碑は昭和三十八年、地元有志によって「日本蚕業史跡、鑓水商人記念」として建てられたもので、/最近この道が日本の絹の道として再評価されるようになってきた。
 道了峠付近は多摩ニュータウンの開発計画に入/っており、東急団地がすでに整地を終わり、巨大/な水道タンクがこの由緒ある歴史的な景観をすっ/かりぶちこわしてしまっている。
 ただ新緑の中を鶯が鳴き、野苺が花をつけてま/だこの道がかつての「絹の道」であることを細や/かながらとどめている。【85】

と述べる。84頁は12行めまでの上部に下に明朝体横組みで「鑓水商人の屋敷跡(八王子市)」とのキャプションを添えた横長の写真があり、85頁11~17行めの上部にやはり明朝体横組みで「「絹の道」の道標(八王子市)」とのキャプションを添えた縦長の写真があるのでこれらの行は字数が少なくなっている。
 但し前者、本文にも見える「大きな石垣」の「屋敷跡」は、大塚家のものではなく現在絹の道資料館の建っている八木下要右衛門家屋敷跡で、後者は本文に「写真に見られる」とある通り「道標」ではなくて「絹の道」碑である。「その道端」とあるが道了堂の入口、階段の下である。そして「昭和三十八年」は道了堂の堂守の老婆が殺された年で、碑が建てられたのは冒頭に述べたように昭和32年(1957)である。
 なお「水道タンク」は東京都水道局鑓水給水所で、昭和50年(1975)1月3日国土地理院撮影の航空写真(CKT7416-C35-18)では円形に土を刳り抜いてあって、重機も見えるので基礎の工事中(正月休み)であったようだ。従って、この後どのくらい掛かったのか分からぬが、とにかく昭和50年完成と見て誤らない。そうすると、井上氏が絹の道を歩いたのは昭和50年か昭和51年(1976)の「新緑」の頃と絞り込むことが出来る。
 「参考文献」66点の31点め(237頁上段21~22行め)に挙がる「辺見じゅん『呪われたシルクロード』昭和五十年 / 角川書店」に依拠したのであろうが、このように少々不安のある記述で、道了堂の様子について何の記述もないのでその意味でも参考にならないが、この頃に絹の道・道了堂を訪れた記録の1つとして挙げて置こう。(以下続稿)

*1:ルビ「やりみず」。