瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(117)

 昨日取り上げた柴田隆行 編集兼発行「片倉の自然」及びその臨時増刊号「絹の道―歴史と自然―」から、道了堂に関する記述を抜いて置こう。但し昨年12月に僅かな時間に取ったメモに基づいているので、誤りがあるかも知れない。かつ、もう少し他の項目についても注意を払っておくべきだったと思うのだが、差当り今手許にあるメモを記事にして置くこととし、校正・補足の機会を得たいと思う。
・「片倉の自然」創刊号
 13~14頁「絹の道 郷土史シリーズ2」と題して(最初の3字の下に二重線、そこからシリーズ名の下まで一重線)まづ13頁に絹の道の説明、14頁は道了堂、鑓水停車場、石垣お大尽、道標「八王子道」、永泉寺を取り上げて解説している。その、14頁1~7行め「道了堂」の本文を抜いて置こう。2~7行めの6行は行頭2字半下げ、1行めの見出しは省いた。」

 ・・・明治7年,大塚五郎吉ら鑓水商人たちが,永/泉寺別院として建てた。明治26年の絵図を見ると,道/了堂と並んで子守堂や庫裡・書院が境内にあり,満開/の桜が,その栄華を誇っている。遠望しうる12州の,富士/山や大山のほか,筑波山・日光山,さらに墳煙なびかせ/る浅間山が描かれている。昭和38年堂守が殺されて/からは荒れる一方で,昨年春の嵐でついに屋根も落ちた。


・「片倉の自然」臨時増刊号「絹の道―歴史と自然―」
 3~5頁「絹の道」の最後、5頁11~21行めに参考文献を紹介している。その17行めまでを抜いて置いた。

 絹の道は最近有名になり、参考文献も多/いが,最も秀れているのは朝日新聞社がまとめた/『多摩の百年』下巻だろう(1976年)。人物を/中心に描いた小説『呪われたシルクロード』/辺見じゅん(1975年),記録報告書『絹の道の/遺跡と現状記録』(1981年)などもある。『/道の文化』(1979年)の中で色川大吉氏は,‥/‥


 ここでは「小説」の上に傍点「・」が打たれていることに注意して置く。
 そして6~9頁「歴史散歩のポイント地点」でも筆頭、6頁2~11行めに、

道了堂 標高213mの大塚山の頂上にある道了堂は、明治/7年、当時栄んであった鑓水の生糸商人 大塚五郎吉らが、柚木にあ/る永泉寺の別院として建てた。明治26年刊の絵図をみると、道/了堂と並んで子守堂、庫裡、書院が境内にあり,満開の桜がその/栄華を誇っている。八王子や多摩、さらにはエドからも参詣客が絶えな/かったそうだ。それが完全に絶えたのは昭和38年に堂守が殺されて/からだろうか、その後は荒れるにまかせ、今はついに屋根も落ち、見るも無残だ。/絵図で遠望しうる12州の、富士山や大山のほか、筑波山や日光山、さらに墳/煙たなびかせる浅間山が描かれている。浅間山は未見だが、良く晴れば日光の/山波が見られる。変らないのは展望だけだろうか。

と「片倉の自然」創刊号の記述に、2022年10月13日付(105)に見た、明治26年(1893)5月刊「武藏國南多摩郡由木村鑓水/大塚山道了堂境内之圖」に描かれる境内の様子を加えたものとなっている。
 さて、昭和58年(1983)10月刊「絹の道―歴史と自然―」では「屋根」が「落ち」た時期を「今はついに」と余り隔たらぬ時期のように書いているのだが、昭和57年(1982)11月刊「片倉の自然」創刊号では「昨年春の嵐でついに」となっていた。――そうすると2022年6月12日付(073)に見た昭和57年(1982)3月刊、カラーブックス564『武蔵野歴史散策』掲載の写真のような状態になったのは、その前年、昭和56年(1981)春と云うことになる。
 これは、或いは日付が特定出来る可能性もあるかと考えて、当時の八王子の日々の気象の観測記録(これについては別に記事にするつもりで細かい書誌を控えて置かなかった)を眺めて見たのだが、どうもよく分からない。そんなに降水量や風速の目立った日が見当たらないのである。もちろん、数kmであっても離れておれば全く同じと云うことにはならないし、八王子の市街地と213mの山頂とでは条件も違う。しかしそれにしてもと思って、帰宅して確認してみるに、2022年10月7日付(103)に見た、昭和56年2月刊『日本農業全集』第三十五巻「月報」の山田桂子「「絹の道」をゆく」に、既に昭和55年(1980)11月20日のこととして「ひさしが落ち」と描写してあったことを忘れていた。
 柴田氏は自然観察をしている人だから(著書ではくどくならないよう省略しているのだろうが)日付の入った記録を付けているはずである。しかし、日参しているわけではないから、昭和55年秋から昭和56年春までしばらくブランクがあって、その間の早い時期に崩壊していた屋根を、遅い時期のことと判断したと云うことも、ない訳ではなかろう。そこでこの点、それから柴田氏も編著者の1人として参加している『八王子事典』の「道了堂」項の、解体時期に関する明らかに事実に反する記述について、直接質問したいと思ったのだけれども、1月19日付(3)に述べたように柴田氏は埼玉県で一昨年11月中旬に遭難死しておりその機会は既に失われていたことを知った。返す返すも残念である。(以下続稿)