瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(93)

・佐藤孝太郎「八王子市の歴史」(2)
 7月16日付(92)の続き。
 ①②129頁③413頁12行め、ゴシック体2行取り「浜街道はシルク・ロード」とあって、①②129頁③413頁13行め~①②130頁③414頁2行め

 八日町の東端は南横町と小谷横町とよばれ、この横町を南すれば横浜街道として御殿峠がある。
 この御殿峠から由木出張所管内の鑓水へ行く道がある。この鑓水道は安政開港直後輸出生糸の輸送/路として徳川時代幕末、八日町鑓水横浜コースといわれ、生糸商人の往来がはげしかった。甲州馬/【①②129③413】(小馬)の背につけた生糸の荷を馬の力を借りて進んだ道も、今は遺跡をわずかに残す竹で消えか/かっている。


 この節は引用しなくても良かったのだが、疑問があるので敢えて抜いて置いた。八王子市八日町と横山町の境を南下するのが国道16号線東京環状線)で御殿峠に至る。佐藤氏はこの御殿峠から鑓水へ行く道が鑓水道だとしているが、御殿峠道はそのまま橋本へ南下するので、御殿峠から鑓水を回ったりはしなかったはずである。鑓水を通るルートは片倉の兵衛川を、現在よりも上流に架かっていた釜貫橋で渡ったところで御殿峠道と分かれて釜貫谷戸を鑓水峠・道了堂へと登って行き、八王子市指定史跡「絹の道」を下り、大栗川を渡って伊丹木谷戸を遡って小山へ抜けるので、御殿峠は経由しない。当初は鑓水峠の方がメインルートだったのがその後御殿峠の方が主になっていった経緯は、馬場喜信が歴史の道調査報告書 第四集『浜街道法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』にて述べるところである。
 そして①②130頁③414頁3行め「絹の道開く」、本文は①②130頁③414頁4行め~①②131頁③415頁10行め、うち引用は1字下げで後は1行空けているが前は詰まっている。

 昭和四十七年四月一日発行の朝日新聞首都部編集の「街道」の冒頭は「絹の道」である。それは次/のように書いてある。

 八王子市片倉町の横浜線踏切を東に折れ山道をのぼりつめたところに小さな堂がある。永泉寺別/院大塚山道了堂。地元の人たちは「道了堂さま」と呼んで親しみ、古くは戦前豊作を、戦後は病気/平ゆを祈るが、三十九年(昭和)留守の老母が近くの宅造現場をきいた労働者に殺されてから、人/人の足が遠のき、仏像から庭木まで何ものかに持ち去られた。
 幕末から明治にかけ八王子の絹商人が神奈川港(現在の横浜港)に絹糸を運んだ和製シルクルー/トは、このお堂のすぐ下を通っている。


 安政開港(一八五七)は日米通商条約を結んだ。甲州や上州(前橋)から八王子市場に集められた/生糸は、八王子の八日市の生糸商人によって横浜の外人商館へ送られた。その第一中継地は当時の鑓/水か御殿峠の東側の高地で難所であった。ここから横浜への幾つかのコースがあり、近道が選ばれて/横浜街道が今の国道16号線の原型として形成されたのである。【①②414頁③130頁】
 慶応元年(一八六五)に鑓水公会堂前に建てられた石の道標は高さ一メートル「正面八王子道、西/の面橋本大山津久井、東側ははら町田、神奈川、ふじさわ」とある。*1
 昭和三十二年地元の郷土史家橋本義夫氏らによって「絹の道」が建ち、左に「日本蚕業史蹟」右に/鑓水商人記念」と刻んである。
 この地の大塚徳右衛門や要右衛門、平兵衛、宗平など豪商豪農の旧宅跡は「浜街道」の遺名に沿っ/てあるが、旧屋敷の巨大にして宏壮さは石垣積みの遺構に残っている。
 外国商人をこの山里に招待して生糸取引に心血を注いた異人館も、今は修理を加え、他人の住み家/と移っているのは惜しまれる。
 この附近は八王子市と多摩ニュータウンの接点、鑓水、板木谷戸には二十五戸の部落があるが、小/泉栄一氏宅は東京都文化財として保存されている。


 記事の引用によって、僅か8年半ほどの間に荒廃が進んだ理由が「何ものか」――人為的な要因であることが理解される。しかし記事の引用、間々誤りがあるらしく、佐藤氏の地の文も何だか落ち着かない。まづ、事件が起こったのは昭和38年(1963)である。これだと殺されたのは住持の「老母」のようだが、堂守の老婆である。そして娘が山を下りたことで無住となったために「何ものかに」荒らされることとなったのだが、これではその辺りも分かりにくい。
 この頃、絹の道に関する新聞記事が増えたことは、4月12日付(31)に引いた、法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』所収の馬場喜信の論文、第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の「第二節 《絹の道》―その歴史的景観の発掘と史跡化」210~213頁7行め「(2) 《絹の道》史跡化への動き―行政・報道・出版など」の冒頭部にも指摘されていた。新聞記事の幾つかは〔年表〕の「④ 《絹の道》史跡化への動き―行政・報道・出版など」に紹介されているが、佐藤氏が引いている記事には触れていない。ここでは馬場氏の〔年表〕に見える新聞記事を紹介した箇条を抜いて置こう。まづ1条め、222頁下段13~14行め、

一九七一年(昭和四六)朝日新聞(五月七日付)が「埋も/ れゆく《絹の道》」と題して変貌のすすむ状況を紹介する。


 4条め、223頁上段4~7行め、

一九七二年(昭和四七)九月「開化日本を育てた動脈/ 〈シルクロード〉無惨」の新聞報道で、大塚山北斜面が/ 宅地造成工事により大きく削り取られたことがとりあげ/ られる。


 これは切抜きに紙名・日付を控えていなかったものらしい。
 6条め、223頁上段12~14行め、

一九七二年(昭和四七)朝日新聞(一一月四日付)が「歴/ 史を訪ねて―豪商の栄華残す石だたみ」と題して《絹の/ 道》の散歩ガイドを掲載する。


 8条め、223頁上段17~19行め、

一九七四年(昭和四九)朝日新聞(五月三〇日付)が「石/ 碑や無住のお堂、往時をしのぶ《絹の道》」と題して、/ 散策ガイドをかねて往時の状況を紹介する。【223上】


 これらの記事、そして他紙の記事も追って確認して行きたいと思っている*2が、縮刷版を揃えている図書館に出向いて長々と滞在する気持ちになれずにいる。(以下続稿)

*1:鉤括弧は銘文に限るべきだろう。「本大」にルビ「はしもと」。

*2:佐藤氏の引用の疑問箇所が原文以来のものか、それとも写し間違いもなのか、確認出来たらここに追記する予定。