瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(71)

・かたくら書店新書20『絹の道』(5)
 昨日の続きで、本書に見える、道了堂の現状についての記述を、今回は後半から拾って置こう。
 51~58頁「六、八王子市の絹の道保存計画と概要について」は、52~53頁2行めに概要を略述、54頁「絹の道保存計画略図」に「大 塚 山」、53頁「保存地域の区分」の同様の略図には「Ⓓ 公園として整備する」との説明がある。55頁「資料Ⅰ 鑓水商人屋敷跡完成予想図」の扉があって、56頁「大 塚 山 整 備 平 面 図  1/1,000」、次は頁付「57~58」のある折図で大きく「鑓水商人屋敷跡完成予想鳥瞰図/(市史跡絹の道保存整備計画より)」を示し、右上の余白に「鑓水商人屋敷跡整備平面図」を入れ、裏は白紙。「資料Ⅱ」がないので「Ⅰ」とした理由は不明だが、「大塚山整備平面図」を見るに道了堂の位置を線で囲って「道了堂跡表示」とあり、そして今「道了堂跡」碑が設置されている場所に「解説版」を設置する予定だったことが分かる。
 「六、絹の道の周辺」の細目は6月7日付(68)に示したが、藤森治郎「⑤ 道了堂付近」に、往時を回想した中に76頁3~4行め「‥‥、お堂も今のようなひどい/痛みようでは‥‥」とある。回想については改めて取り上げることとしよう。
 やはり6月7日付(68)に細目を示した「七、絹の道・鑓水の里を歩いて」では、安彦春江「④「絹の道・鑓水の里」見て歩きに参加して」に、100頁8~10行め「‥‥。青木さんのご説明に往時の俤がしのば/れ、特に道了堂の荒れ果てた様子には、ながい年月のへだたりを感じ/ました。小泉屋敷では‥‥」とあって当日、打越歴史研究会代表の青木貞一は、絹の道の「往時」について「説明」していたらしい。しかるに本書には「」の「② 湯殿川について」なる、大塚山の北麓、片倉町など旧由井村を流れる湯殿川について寄稿しているのみである。これも当日、参加者を感心させたらしい「ご説明」の内容の方を本書には収録すべきだったと思うのだけれども。どうも、当日の様子がぼんやりとしか分からないようになっているのが、読んでいて、何とも隔靴掻痒の感を覚えさせるのである。
 それはともかくとして、本書に見える、道了堂の現状の記述は、以上でほぼ全てを尽くしている。余りにも少なく、余り具体的でもなくて、やはり隔靴掻痒を覚えさせるレベルであろう。
 さて、現在、道了堂の歴史が、一般にどのように語られているか。――それは、インターネット上の情報がどうなっているかが指標になると思うのだけれども、諸説あったもののしばらくは、恐らく『八王子事典』を根源とする昭和58年(1983)解体説が主として行われていた。これに2017年2月に Wikipedia「道了堂跡」項に「不審火による火災で焼失」との理由が附加され、それが2018年1月に「焼失」が「焼損」に書き換えられて、それからしばらくしてこの2、3年ほどは、専ら「昭和58年(1983)に不審火による火災で焼損し、八王子市により解体された」という形で流布するようになった。
 昭和60年(1985)11月3日の「「絹の道・鑓水の里」見て歩き」を元にして企画された本書は昭和61年(1986)9月刊、『八王子事典』及び Wikipedia が正しいとすると、道了堂は、跡形もないはずである。――本書には道了堂の現状に関する記述は少なく、あっても断片的な記述ばかりだけれども、前回引用した佐藤広の「朽ちはてて倒壊寸前のような堂」、或いは今回引いた藤森治郎の「今のようなひどい痛みよう」、安彦春江の「荒れ果てた様子」からして、なくなっていたとは思えない。いよいよ「倒壊寸前」の「ひどい傷みよう」になりながらも、そのまま、存していた。だからこの程度の記述しかなされなかったのではないか。
 同様に、火災があったとも思えないのである。それなりに注目を集めていた道了堂のことである。火災に遭っていたとすれば、地方版かタウン紙に報道されて良さそうなものである。郷土史家でも地元住民でもとにかく誰かが、何らかの記録を残しそうなものである。しかし、Wikipedia「道了堂跡」項に2017年2月に記載されるまで、そのような情報は皆無であった。かつ、火災に遭っておれば大きく損壊が進んだはずで、この「「絹の道・鑓水の里」見て歩き」の参加者、特に、往時の道了堂を知っている打越歴史研究会の会員によって、焼損のことが特に注意されていても良さそうなものである。
 しかしそのような記述は何処にもない。――本書の制作が進められていた昭和61年(1986)夏頃まで、道了堂は火災に遭ったりせずに、静かに朽ち、崩れつつあった。火災その他、記述すべき何事も起こっていなかったから、何の記述もないのだ、と判断するのが自然であろう*1
 このように書いても、読者の中には或いは、――本書が肝心の「絹の道」の概要を欠いている*2のと同様、執筆者が多く集まった書物の弊として、肝心なことは誰かが詳しく書くことになっているはず、と思い込んで、結局誰も詳しく書いた者がおらず、結果的に火災・焼損と云ったことへの言及がなされないままになってしまったのではないか、と思う人が、いるかも知れない。
 確かに、以上書き抜いた本書の記述からは、明確にこの可能性を否定し去ることは不可能である。
 しかし、本書には主として上欄に、余り大きなものではないが、写真が多く掲載されている。道了堂の写真も、2つ、掲載されているのである。(以下続稿)

*1:5月16日付(54)に見た、昭和60年(1985)5月刊行の馬場喜信『八王子片倉台の地誌』追補版の記述も、同様に判断すべきだと考えている。

*2:その理由は6月8日付(69)に、見当を示した。