昨日の続き。『日本農業全集』第三十五巻「月報」の山田桂子「「絹の道」をゆく/――東京・八王子市鑓水にて――」の5節め「北村透谷や武相国民党にもゆかりの道」の冒頭、10頁下段4~7行め、
その当時は、この/峠のふもとに茶店が/五、六軒あったとい/う。
そして明治の絹の道の様子を想像し、さらに自由民権運動について、21~22行め「色川大吉氏の『明治の精神』を/読むと、」として触れ、11頁上段12行め~下段3行めにはの「(『多摩の百年』上、朝日新聞社)」からの引用も挿入しながら、11行めまで武相困民党に思いを馳せる。そして1行分空けて12~20行め、
私たちはこわれた道了堂の裏手で、降りそそぐ落葉を浴びてい/た堂守・浅井としさんの墓に手を合わせた後、きびすを返して峠/をくだった。
秋葉大権現の供養塔と庚申塔のある辻まで戻り、生糸商人の欲/望と農民の怒りが交錯したであろう道、そして透谷が青春の熱い/思いを秘めて足を急がせたであろう道を、谷津田にそそぐ大栗川/の細々とした支流に沿ってたどって行った。
柚木街道へ突き当たる手前の火の見やぐらの下に、慶応元年に/立てられた道しるべがある。‥‥*1
以下、頁末までこの道標について、銘文を読むなどしている。
ここで「浅井としさんの墓」が唐突に出て来る。山田氏は道了堂について「荒れていた。荒れ果てていた。」と強調しているが、何故そうなったのか説明していない。しかし、読者も事件のことを少なからず知っているはずだと云う書き振りである。
6節め「蚕室と蚕具が往時のままに残る小泉家」の冒頭、12頁上段2~9行め、
柚木街道を突切って原町田方面へ向かう「絹の道」を五〇メー/トルほど行ったところに小泉家がある。
小泉家は、ちょうど百年前建て替えられたものだが、入母屋造/り、茅ぶき、田の字型で、典型的な養蚕農家の構造を残している。/門口を入ると何ともいえぬ香ばしい匂いがただよっていた。「い/ま醤油を搾ったばかりで」と、当主の栄一さん(六五歳)が柔和な/笑顔で迎えてくださった。「日本農書全集」養蚕編のことをお話/し、見学のお許しを得る。
として、以下、小泉氏の談話を交えながら蚕具や養蚕農家の暮らしについて述べている。注意して置きたいのは、13頁上段5~7行めの談話に「「八十七になる私の母の代までは‥‥」とあること。それから13頁左上の写真に「小泉栄一氏」の「説明」を受けている女性が写るが、10月5日付(101)に取り上げた『やってみたいな こんなしごと』に載る写真にくっきりと太い眉が一致することから、山田氏だと判明する。
7節め「経済政策の犠牲となった養蚕」の冒頭、13頁下段21~23行め、
二階、三階の蚕室をくまなく見学させていただいた後、私たち/は小泉家に保存されているいくつかの養蚕関係の文書を拝見する/ことができた。その中の一つに、明治六年一月に‥‥
として、24行め~14頁上段1行め「「生糸改会社規/則」という文書*2」を紹介する。
8節め「エピローグ」も4節めに同じく全文を抜いて置こう。
小泉さん宅から出て、私たちは「絹の道」を町田方面へ向かい、/旧道が尽きるところで、あわただしい探訪の一日を終えたのだが、/【14上】実はひとつだけ心残りなことがあった。というのは、柚木街道を/鑓水から西へ一キロほど行ったところに、蚕種石*3という地名があ/る。現在、多摩美術大学の裏手に当たっている山のあたりに「蚕/種石」があり、以前は春になって、この石が青むのを見とどけて/から、各家で蚕種の催青にかかった、といわれている。小泉さん/の家は蚕種商人の宿になっていて、春になると、信州塩尻から蚕/種商が大きな箱を背負ってやってきては小泉家に旅装を解き、数/日がかりで近所の家々へ種紙を配って歩いたものだという。
そのようにして蚕種紙を受けとると、人々は蚕影神社に参詣し/てお守り札を受け、蚕種石を掃き立ての目安として、一年の養蚕/がはずれることのないよう心くばりをしたものであろう。今回の/訪問では割愛したが、いつの日かその蚕種石を訪ねて催青の模様/を見、当時の村の人々の心ばえにもふれたいという思いを抱いて、/私たちは暮なずむ多摩の山かげに別れを告げた。
ここで前回見た7頁左上の地図の右下(東南)部を確認して置こう。「道しるべ」と絹の道と「柚木街道」との分岐に立っているように見える。柚木街道を渡ったところも実線に「絹の道」とあって、その左に「小泉家」がある。絹の道はその下(南)で橋本の北で国道十六号線から東南東に分岐する「町田街道」に合流している。町田街道には「町田を経て横浜へ→」と添えている。そして小泉家の左(西)、国道十六号線に近い辺りに〇で囲んだ「?」があって「蚕種石」と添える。戦前までの地形図には見当たらないが、戦後の地形図では町田市相原町の、多摩美術大学の南西に「蚕種石」の集落名が記載されている。
山田氏はその後、蚕種石を訪れたであろうか。それは今後の課題として、注意して置くこととしよう。(以下続稿)