瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(102)

 昨日の続きで『日本農業全集』第三十五巻「月報」の山田桂子「「絹の道」をゆく/――東京・八王子市鑓水にて――」の内容を確認して行くこととしよう。と云って全てを押さえる訳には行かぬので、当日の状況、それから道了堂や絹の道・鑓水に関連するところに絞っている。
 1節めの「プロローグ」の冒頭を抜いて置こう。7頁上段5行め~下段2行め、

 一九八〇年十一月のあるうららかな朝、東京都下八王子市鑓水/にあるという「絹の道」探訪のため、私たちは国電八王子駅前を/出発した。ウィークデーの昼間というのに、その日は二の酉*1とあ/って市内は意外に車が混雑していた。「農書を読む会」の幹事で、/筑波大の佐藤常雄氏がわざわざ千葉県松戸から愛車を駆って参加/してくださり、途中、埼玉県越谷で本全集編集部の中田謹介氏を/【7上】拾い、四時間がかりでようよう東京の西のはずれの絹の街に伊藤/泰子さんと私とを迎えてくださったのだった。


 昭和55年(1980)の二の酉は11月20日(木)であった。八王子で酉の市で賑わう神社は、甲州街道に面した横山町25番3号の市守大鳥神社(鳥居の額等には「市守神社/大鳥神社」)である。
 佐藤常雄(1948生)は秋田県出身、昭和47年(1972)東京教育大学農学部卒業、昭和49年(1974)東京教育大学大学院修士課程修了、助手となり昭和53年(1978)東京教育大学の閉学に伴って筑波大学に移り、昭和63年(1988)に助教授、平成7年(1995)に教授に昇進している。
 中田謹介(1934生)は東京生れ、東京教育大学農学部卒業。社団法人農山漁村文化協会に36年間勤務して、本全集や、その後の『日本の食生活全集』の編集長などを歴任している。
 伊藤泰子は農書を読む会の会員だったと云う以上のことは俄に分からない。
 なお『「待ち」の子育て』当時、山田氏の住所は東京都日野市落川(百草団地)で最寄駅は京王帝都電鉄京王線百草園駅であった。そうすると京王線京王八王子駅に行って徒歩で中央線八王子駅前まで移動し、伊藤氏と落ち合ったのであろう。
 次の段落の冒頭も抜いて置こう。7頁下段3~5行め、

 駅前から甲州街道へ抜けるメインストリートで、カメラを抱え/て助手席に陣どっていた中田氏が、「あっ、この並木、桑の木だ!」/と、まず奇声を発する。桑は八王子の「市の樹」である。‥‥

とあるが、この通りは「桑並木通り」で、甲州街道との交差点の北東側に市守大鳥神社がある。そのため混雑に巻き込まれたのだが、それでも甲州街道に出たかったのは横山町から甲州街道を西に進んで、9~10行め、

 今回の「絹の道」探訪に当たって、私たちはまず、起点を江戸/時代から生糸市場が開かれていた八日町ときめた。‥‥

との理由からであった。そして八日町を抜けたところで南に折れ、中央線を梅原横町踏切で渡って、2節め「桑都八王子の郷土資料館」に向かったようだ。八王子市郷土資料館は昨年3月を以て展示場が閉館し、その後事務室と閲覧コーナーも仮移転して今は建物が残っているだけのようである。
 冒頭を抜いて置こう。17~24行め、

 私たちのお目当ては、幕末に活躍した関東きって/の生糸商人、大塚吾郎吉ゆかりの文書である。この/資料館に二千点近くが保管されているはずだった。
 まっすぐに二階の養蚕関係展示場へゆく。ここに/は高機、居坐機*2、撚糸器のほか、蚕卵から蚕を孵化/させるための催青器をはじめとして、飼育から糸を/とるまでのひとつながりの作業に必要な蚕具の一つ/一つが、細大もらさず展示されている。‥‥


 3節め「御殿峠から絹の道」の冒頭、8頁下段5~9行め、

 郷土資料館を出て、車は八王子市街を後に国道十六号線を南下/して御殿峠へ向かう。左手の草藪の中に「絹の道 この先一㎞」/という道標を発見して左に折れる。
 そこは、落葉の厚く散り敷いた山あいの小道だった。入ってす/ぐ左側の丘の上にある光華寮という救護施設の中から、‥‥


 これにより御殿峠から巌耕地(岸耕地)谷戸に入ったことが分かる。なお、18行め「背面に「正徳三年癸巳年」/」の銘のある17行め「首のとれたお地蔵さん」を見ているが、18行め「目鼻立ちもさだかでなく、」とあるから首のところで折れていただけで失くなっていたのではないようだ。
 この辺りの風景描写も引用したいところなのだけれども割愛して、本題に進もう。9頁上段4~12行め、

 秋葉大権現の供養塔と庚申塔の並んでいる辻に「絹の道・道了/堂」の道標が立っている。それを頼りに道を左にとって坂をのぼ/り始める。
 百数十年前、絹箱やつづらを背負った鑓水商人たちがわらじば/きでたどった道だから、ここから先は徒歩*3で行きたいと思ったが、/むろん車の置き場所/などない自然道なの/で、やむを得ずそろ/そろと轍をすすめた。


 9頁左上の写真には馬場喜信の云う「鑓水三差路」に立つ石塔群のうち「庚申塔」が写っており、その手前に柱に木の板を打ち付けたらしい道標、右を指して「絹の道・道了堂」とあり、左を指して「 絹 の 道 /鑓水公会堂」とある。6月20日付(81)に見たように道路の拡幅が行われる前のことなので、道幅も狭く未舗装で駐車するような場所もなかった訳だけれども*4
 この節の最後を抜いて置く。9頁下段1~5行め、

 登りつめたところが道了堂である。石段の脇のならの木の根方/に「絹の道 鑓水商人記念」の石碑が立っていた。台石には桑の/葉・繭・糸巻のレリーフがほどこしてある。桑を摘み、蚕を飼い、/繭をつくらせ、糸をつむいでいたころの暮らしに対する哀惜がそ/の絵柄にこめられているように私には思えた。


 なお、写真を撮影したのは「プロローグ」からして中田氏らしい。(以下続稿)

*1:ルビ「とり」。

*2:ルビ「たかはた・ い ざ り ばた」。

*3:ルビ「 か ち 」。

*4:同様に八王子市指定史跡「絹の道」を乗用車で登った例としては、2月11日付(006)に見た、昭和59年(1984)3月15日に道了堂を訪れた小池壮彦が挙げられる。