瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(103)

 昨日の続きで『日本農業全集』第三十五巻「月報」の山田桂子「「絹の道」をゆく/――東京・八王子市鑓水にて――」の4節め「道了堂は荒れていた」を見て置こう。

 道了堂は大塚吾郎吉をはじめとする地元の生糸商人や豪農らの/寄進によって、明治七年に建立されたもので、鑓水村にある永泉/寺の別院である。
 ご本尊の妙見菩薩/は小さな祠にまつら/れ、「北斗さま」と*1/呼ばれて古くから/信心されていたが、/維新後の神仏分離令/により、菩薩像は道/了堂へ、祠は道了堂/から少し東よりの場/所に蚕影神社として/まつられることにな/った。その蚕影神社/はいまはとりこわさ/れ、そこにはなにや/ら宇宙カプセルを思/【9下】わせる貯水タンクが青白い光を放って鎮座ましましている。この/峠の裏側につくられたニュータウンのおかげなのである。
 道了堂を建てるときに村の人々が総出で、ふもとから石を運び/上げて普請したという素朴な石段を登ると、そこはうっそうと木/が生い茂り、暗くかげっていた。
 道了堂は荒れていた。荒れ果てていた。本堂はひさしが落ち、/壁は破られ、戸ははずされ、ご本尊の妙見菩薩は影も形もなかっ/た。境内の「永代御祈禱」の碑も故意に割られた形跡があった。
 あとで土地の人に聞いたところによれば、境内には大小の石燈/籠が数多くあり、銘木も種々植えられていたが、近年、首都圏一/帯を襲った大規模なニュータウン計画等のせいか、庭石や植木の/需要がふえて、いつの間にか誰かしらに持ち去られたのであろう、/とのことだった。
 堂の裏手にまわると、そのニュータウンがすぐ目の下に広がっ/ていた。八王子からこの峠まで、多摩丘陵の北半分がそっくりえ/ぐり取られ、無数の住宅がまるで背くらべでもしているようにひ/しめいていた。
 その真中を、かつて「絹の道」が貫いていたはずだった。
 月六回、八の日と四の日に市の開かれる八王子から、湯殿川を/渡り、片倉を通り、この峠を越えて鑓水へ下り、境川沿いに原町/田を経て、相模野をよぎり、横浜の港まで、ほぼ一直線に道は続/いていたはずである。全行程約九里。上州、甲州、武相一帯の生/糸の集散地である八王子から、横浜までの最短距離を結びルート/が、この道なのである。【10上】


 道了堂の本尊についてはこれまで取り上げて来た文献、例えば『八王子事典』等にも特に記載がなかった。いや、「道了堂」と云う名称なのだから、4月9日付(028)に引いた島村一鴻 編『八王子案内』の「相州小田原なる大雄山最乗寺道了薩陀の分霊なりと云ふ。」との記述を得ていなかったとしても、道了薩埵(道了大権現)を祀った堂なのだろうと思う。
 ただ、どのような位置付けであったかはともかく、道了堂に妙見菩薩が祀られていたことは、他に文献を得ている。もう4ヶ月放置したままになっているのだけれども、年内には当ブログにて報告したいと思っている*2
 貯水タンクは東京都水道局鑓水給水所で、8月22日付(097)に考証したように昭和50年(1975)完成である。ここに蚕影神社がいつまであったのか(そもそもここにあったのか)については、これも他の文献を挙げつつ遠からず考えてみることとしたい。
 石段については、6月26日付(087)に引いたかたくら書店新書45『浜街道に、明治9年(1876)に日影谷戸にあった諏訪神社が子ノ神谷戸の現在地に移された際に、元の諏訪神社の石段を移したとあった。
 さて、山田氏は道了堂の様子を簡潔に纏めている。うち「壁は破られ、戸ははずされ」と云った辺りは昭和45年(1970)頃から昭和54年(1979)に掛けて撮影された複数の写真・映像に窺われる通りであるが「ひさしが落ち」と述べていることに注意される。
 昭和57年(1982)*3までには6月12日付(73)に見たカラーブックス564『武蔵野歴史散策』19頁上に掲載される写真のように、向拝の屋根、すなわち庇が崩れていたことを指摘した。しかし1980年代に入ってからの写真が殆どなく「ひさしが落ち」た時期については、昭和54年以後昭和57年*4までの間、と幅を持たせるしかなかったのだが、この山田氏の記述によって昭和55年(1980)11月20日には既に向拝の屋根が崩れていたことが判明した。1970年代の写真は少なくないのに、1980年代の写真が極端に少ない理由は、向拝の屋根=庇が落ちたことで、荒廃が進み見る者に陰惨な気分を与えるようになったことで、撮影を躊躇、もしくは撮影しても公開を躊躇、いや、そもそも上手く撮影しづらくなっていたことに、求められるようである。
 7月15日付(091)に引いた郷土叢書1『多摩』7月31日付(093)に引いた佐藤孝太郎「八王子市の歴史」に引かれている「朝日新聞」地方版の記事等から、昭和44年(1969)には既に荒らされ尽くされていたことが分かっていたが、燈籠や植木が持ち去られた理由について書かれていることが有難い。推測出来ることではあるけれども。
 堂の裏手からの眺望に関連して、7頁左上の地図に触れて置こう。ごく簡略な地図で、八王子市街には「八王子駅」くらいしか記載がない。京王八王子駅も明記されていない。横山町・八日町・郷土資料館も記載がない。「国鉄中央線」の「→/新宿」と「横浜線」そして線種を変えて「京王線」は記載されているが高尾線は記載がない。道路は「国道十六号線」が「片倉駅」近くで横浜線を渡り、「御殿峠」の「武相困民党/集結地点」を経て「橋本」に至るが、この辺りの横浜線の線路及び橋本駅の記載がない。片倉駅の近くで国道十六号線から分岐した破線には「かつての絹の道」とあり、その辺りには左右(東西)に家並を描き「ニュータウン」と添える。そして破線の下端に「道了堂」があり、この辺りには実線の道路も記入される。道了堂近くに「絹の道/の碑」があるがこれは実線の道を挟んだ向かいにある。道了堂の少し右(東)にはUFOのようなものが書かれていて「蚕影神社の/あったところ」と添える。なお、実線の道は御殿峠から2つ、道了堂に通じるものと道了堂のやや下(南)で「絹の道」に合流するものとがある。しかし後者は早くに合流し過ぎである。
 絹の道を下ったところから先は、続きの内容と共に次回、検討することとしよう。(以下続稿)

*1:ルビ「ほこら/ほくとう」。

*2:10月15日追記10月15日付(107)に報告したふるさと板木編集委員会『ふるさと板木』。

*3:【10月9日追記】投稿当初「の年末」としていたが削除した。――『武蔵野歴史散策』は3月刊なので「の初め」とすべきであった。とにかく勘違いなので訂正いたします。

*4:【10月9日追記】投稿当初「年末」としていたが同様の理由で削除。