瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(48)

・歴史散歩⑬『東京都の歴史散歩 下 多摩・島嶼
 5月2日付「全国歴史散歩シリーズ13『東京都の歴史散歩』(3)」に書影を示した、山川出版社の「歴史散歩」シリーズの1冊。
 5章め、97~140頁「八王子」は8つの節に分れるが、その最後が、昨日見た新全国歴史散歩シリーズ13『新版 東京都の歴史散歩 下』の「7 片倉城跡・絹の道とその周辺」に当たる、137~140頁「➑ 日本のシルクロード「絹の道」を歩く」である。なお、この章は97~110・112頁はカラーで、111・113~176頁――続く「町田」「五日市街道」の章まで赤黒2色刷となっている。
 本文は137頁4行め~138頁5行め「片倉城*1」と138頁6行め~140頁「絹の道*2」の2つに分れている。
 後者は前半138頁8行め~139頁19行めが鑓水・絹の道の紹介で、後半は周辺の、中山の白山神社、下柚木の永林寺、松木七郎の墓、別所の蓮生寺、大塚の清鏡寺の紹介となっている。松木七郎の墓が新たに加えられており、昨日見た新版では宗派に添えて所在地(住所)を示していたのが、この版は所在地を示さないので本文に記載のない、清鏡寺の所在地が「大塚」であることが分からなくなっている。138頁下(9行分)に「絹の道周辺の史跡」と題する地図があって、新版に載っていた同題の地図よりも範囲が広く、重なるのが道了堂跡絹 の 道絹の道資料館(八木下要右衛門屋敷跡)道標永泉寺小泉家屋敷白山神社で、絹の道は中を白く抜いた2本線の道路に赤の破線を記入している。「建設中の道路」だった八王子バイパスが新たに加えられ、さらに地図の範囲が東に広げられたことで永林寺松木七郎の墓(宝篋印塔)蓮生寺が追加されているが、清鏡寺は載っていない。
 それはともかくとして、昨日引用した新版の本文に対応する箇所を抜いて置こう。138頁8行め~139頁8行め、

 JR横浜線国道16号線と交差するさきから鑓水峠の道了堂旧地/をとおり柚木街道にくだる道は,幕末の横浜開校以来生糸が運ばれ*3/た古道の1つであり,神奈川往還の通称で,浜街道ともいわれてい/た。昭和20年代末に「絹の道」と命名され,広く知られるようにな/った。八王子に集められた生糸はこの道をとおって,鑓水村の生糸/商人(鑓水商人)によって横浜に運ばれていった。
 1996(平成8)年,未舗装部分の道了堂跡の大塚山公園から鑓水峠/下までの約750mが,歴史の道100選に「浜街道」という名称で選定/された。道了堂は,1875(明治8)年ごろ八王子と鑓水の商人が東京/浅草の花川戸から道了尊を招いて*4,鑓水峠に信仰の拠点を築こうと/創建されたものである。
 歴史散策をするには,バス停のある柚木街道の絹の道入口から道/了堂への道をたどるのが一般的である。街道をはいると御殿橋北側/に,1865(慶応元)年にたてられた道標がある。正面には「八王子道」,/向かって右には「はしもと 津久井 大山」,左には「はら町田 神/奈川 ふじさわ」と彫られている。このさき,300mほどくと「石/*5【138】垣大尽」とよばれていた鑓水商人八木下要右衛門屋敷跡があり*6,立/派な石垣が残っている。ここには現在,絹の道資料館があり,絹の/道に関する文書や資料を展示している。資料館から100mほどいく/と道は2つに分岐するが,右側の細い道が絹の道である。この絹の/道をのぼりつめた道了堂跡入口には,「絹の道」の碑がたてられて/いる。
 もとの道を道標のところまで引き返し,大栗川沿いに200mほど/東にいくと,左手に永泉寺(曹洞宗)がみえてくる。‥‥*7


 道了堂の創建年を明治8年(1875)とするのは、4月27日付(46)に見た、当時設置されていた「大塚山公園」現地案内板に従ったものであろう。
 新版には昨日触れた「道標側面拓影」の他に、138頁下左に「絹 の 道」、下右に「鑓水商人の石垣(改修後)」そして139頁右上に「小泉家屋敷」の写真があったが、この版では、新版とは別の「小泉家屋敷」の写真、そして「白山神社」の写真となっている。なおこの節の前半は新版135頁下右「片倉城跡遠望」、この版では137頁下右「片倉城」の更に遠望した写真。(以下続稿)

*1:ルビ「かたくらじょうせき」。

*2:ルビ「きぬみち」。

*3:ルビ「どうりょうどう/ ゆ ぎ ・ き いと」。

*4:ルビ「あさくさ・はなかわ ど 」。

*5:ルビ「/ ご てん/けいおう/ つ く い ・おおやま/いし」。

*6:ルビ「がきだいじん・ や ぎ したよう  え  もん」。

*7:ルビ「おおくり/えいせん じ ・そうとう」。