瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(329)

 私は4年前に「赤マント流言」に関する本を出したいと当ブログに書いたのだが、実はその後、消極的になっている。
 構想としては『昭和十四年の「赤マント」』と題して、新聞・雑誌・日記等から拾った当時の記事を順を追って辿りながら、赤マント流言の発生・伝播、そして影響については近年の稲川淳二の「赤い半纏<完全版>」辺りまで検証した1冊、そしてもう1冊は小沢信男「わたしの赤マント」など*1俵万智『サラダ記念日』の愛読者カードでの投稿を集めた歌集『わたくしたちのサラダ記念日』に倣って、赤マント流言を小説や随筆、論考等で回想した文章を集めたアンソロジー『わたしたちの赤マント』*2の2冊本にしようと思っていた。
 私がどのくらい準備が出来ているかは、当ブログに示して来た通りである。もちろん、これを纏める作業が面倒臭い訳だが。
 しかし、ただ、新聞記事を見付けて複写を取ったのとは違う。実は、複写は取っていない。全て、書写したのである。当時の新聞は総ルビだから、複写では読めなくなってしまうことが多い。読めないかも知れぬと思って大きく複写を取ってもらうのも手間だし整理が面倒である。それに大体は普通に読めるのである。いや、複写を取ってしまうとそれで安心して何もしなくなってしまう可能性が高いと思ったのだ。だから、とにかく国立国会図書館の閲覧室で、マイクロフィルムのリールを回しながら読んだのである。そして、色を変えてルビを書き入れて行ったのである。そして、どんどん打ち込んで行ったのである。そしてその成果をもとに、改めて国立国会図書館その他の所蔵機関に出向き、次々と資料をたぐり寄せ、そして大阪まで到達し、加太こうじの記憶が年を除いてほぼ正しいらしいことを証明したのである。回想であれば北九州・朝鮮、そして、その朝鮮の例の1つはサモアで語られたことも、突き止めた。
 これで、昭和14年(1939)の赤マント流言については、その大体を摑んだと思っている。しかし、私は今、学界に所属していないので論文にするつもりはない。もちろん、別に村八分にされている訳ではないので、書こうと思えば書いて、載せられる媒体がない訳ではない。
 しかし、ブログのままで何がいけないのか、と思うのである。ブログ記事でも、きちんと認めてもらえれば良いだけの話だ。活字化されていないから駄目だと云うのは、何様の傲慢だ? いや、そういう扱いなら未発表に等しいのだから、勝手に使わないでもらいたい。私は執筆希望を表明しているのだから、私に書かせてもらいたい。私がこのブログを削除もしくは非公開にしたら、どうなるのか? このままでも、好い加減な活字媒体、いや、もっと言おう、僅かな、間違った文献に依拠して論を立てているものよりも余程信用出来るではないか。「瑣事加減」を、典拠として認めよ。そうなった暁に、私は総論を書こうと思う。
 いや、2冊本刊行の希望も、捨ててはいない。いや、電子書籍などの勉強もして見るべきなのだろうか。どうも、新しいことに疎くていけない。

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 こんなことを書くつもりではなかった。しかし、もう少し続けよう。――大学院の先輩が、自分の研究対象について、国立国会図書館で当時の人名録を見付けて、それを紹介しようとしたときに、より年上の先輩が眉をひそめて「使われますよ?」と釘を刺したことを思い出したのである。要するに、十分に研究した上で紹介しないと、国立国会図書館で誰でも見られる本であれば、他の、もっと遣手の研究者にドシドシ使われてしまう、だから、この程度の発表で、折角見付けた、学界に知られていないこの人名録のことを広めてしまっては勿体ないので、もっとじっくり研究して、十分に絞り尽くした成果を論文として発表する際に紹介するべきだ、と忠告したのである。
 しかし、今の私には学界での栄達も何も関係ないので、出し惜しみはしたくないのである。ただ、このような形であっても、それなりに尊重してもらいたいし、人の褌で相撲を取るくらいなら、本人である私に書かせてほしい、と訴えているだけなのである。
 私としては「使われますよ?」よりも、やはり資料を紹介することの方に重きを置きたいので(だからと云って好き放題にしてくれと云う意味では断じてないのだけれども)その後、拾い溜めた資料を紹介して置くこととしよう。
 赤マント流言を回想しているのは、当時小学生だった人が多い。竹中労もその1人だが、年齢に問題がある。私は年齢と場所を軽視してはいけないと思っているので、まづその確認から始めよう。
・KAWADE 道の手帖『竹中 労』二〇一一年七月二〇日初版印刷・二〇一一年七月三〇日初版発行・定価1600円・河出書房新社・190頁・A5判並製本

 標題は奥付に拠る。カバー背表紙、目次、中扉には1行で、カバー表紙には3行、扉には2行で「没後20年・/反骨の|ルポライター」とある(「|」はカバー表紙のみの改行位置)。
 新稿はエッセイ2本、聞き手・編集部のインタビュー3本、特別対談1本で、他に竹中氏本人の「単行本未収録作品」3本と「再録対談」3本、さらに書籍や雑誌から再録した竹中氏を論じた諸家12人の「論考」12本、最後に編集部による「竹中労主著解題」と「竹中労略年譜」が載る。
 188~190頁、編集部 作成「竹中労略年譜」を見れば、間違いがない、と普通は思う。
 冒頭を眺めて置こう。188頁上段4~11行め、

一九三〇年
三月三〇日・東京・牛込区に生まれる。何度か/の転校ののちに品川区立会川へ移り、鮫浜小学/校卒業。高輪中学校に入学。再婚した英太郎の/元に引き取られる。
 
一九四二年
山梨県甲府市疎開山梨県甲府中学校に転/入学。


 略年譜と云うだけあって、誕生から父の再婚、旧制中学入学までを纏めている。
 昭和5年(1930)3月30日生であれば昭和4年度生だから昭和11年(1936)に小学校入学、昭和17年(1942)卒業、そうすると甲府中学校には1年生のときに移ったことになる。既に再々述べているように、東京の赤マント流言は昭和14年(1939)2月下旬頃のことだから、小学3年生の3学期にこの流言に遭遇したことになる。
 ところが、収録されているエッセイ・特別対談・論考を読むと、この編集部作成の略年譜とは違う年を生年としているのである。(以下続稿)

*1:【2024年1月9日追記】「と」としていたのを修正。

*2:「わたしの赤マント」は、初出と『東京百景』の両方を収録することにして。