瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(333)

・KAWADE 道の手帖『竹中 労』(5)生年月日⑤
 断って置くが、私は別に新説を立てようとしている訳ではない。本書の「竹中労略年譜」が、従来行われいていた①昭和3年昭和2年度)生、③昭和5年昭和5年度)生の2説とは別に、②昭和5年昭和4年度)生説を殆ど何の断りもなく提示していること、そして、それがどうも竹中氏本人の記述、時世や竹中氏周辺の人物、そして「竹中労 年譜」の生年月日以外の記述に上手く合うらしいことに、大袈裟に云うと、驚いているのである。どうして根拠を示さなかったのだろう? Wikipedia竹中労」項は、その出典となっている「竹中労さんのページ」転載版の「竹中労・年譜」が③昭和5年説を採っているのに①昭和3年説を採っていて、これが徐々に広まりつつあるようだ。
 「竹中労・年譜」では、竹中氏は昭和20年(1945)10月「甲府中学校全学ストライキを指揮」したことになっている。①だと既に卒業しているはずである。本書の「竹中労略年譜」の昭和21年(1946)条は「竹中労・年譜」に従っている。
 東京外事専門学校に進学したと云うのであるが、これについては「竹中労単行本未収録作品」の2つめ、126~128頁、竹中労「読書遍歴」は、末尾(128頁下段12行め)に「(『読書人』71年7月26日)」とある。その2節め(127頁上段2行め~下段10行め)「本の山にのめりこむ」に、127頁上段3~9行め、

 一九四六年、なぜか私の入学した東京外事専門学校(現/東京外語大)は、校舎全焼したまま受験だけを行い、合格/者に一年休学を強制するという不思議なシステムをとった。/在学浪人という奇妙なものになった私は、五月十九日食糧/メーデーに参加したり、北海道、九州の親戚をたずねて放/浪したりした挙句、その秋、疎開先の山梨県甲府に帰って/約半年間、図書館通いに明け暮れた。

とあるから本当らしい。③の場合、中学校を3年で「退学処分」になっていながら受験できたのかが疑問である。いや、本当に「退学処分」を喰らったのだろうか。そのまま在籍していたからこそ東京外事専門学校を受験できたのではないか? その場合でも3年生では受験出来ないだろう。やはり②の昭和20年度に4年生だったとする説明が、尤もらしい。当時、中学校の修業年限が4年に短縮されていたから、4年生で卒業見込で受験したのである。もちろん①であれば、受験資格には問題がない。
 竹中氏が昭和3年(1928)生を称していた理由については、改めて検討することにして、ここでいよいよ、と云うか、ようやく、竹中氏の赤マント流言体験に触れて置こう。
 これまで長々と本書の「竹中労略年譜」に付き合って来たが、赤マントに触れるところはない。今日2つ取り上げた「竹中労単行本未収録作品」にも、赤マントに触れたところはない。本書には1箇所だけ、寄稿の中に、竹中氏の赤マント流言の記述に触れたところがあるのである。
 14~16頁、新稿の「エッセイ」2本のうち1つめ、小沢信男「過程に奮迅の人」の冒頭、14頁4~9行め、

 竹中労氏に、生前、二度お会いしました。浅いご縁の者です。
 氏の著書『決定版ルポライター事始』のなかで、一カ所「同年輩の友」と私の名をあげ/ていますが。昭和十年代に一世を風靡した流説・赤マントに触れるにあたり、くわしくは/小沢の著書を参照せよ、というまでで、体験がかさなる同年輩に重点がある。また、竹中/氏の莫逆の友というべきアナーキスト詩人の寺島珠雄氏と、私は昵懇でした。正確には友*1/の友を、ちょっと省略されたのでしょう。


 続いてその「二度」について回想するのだが、ともに竹中氏と誰かの対談の場に居合わせて拝聴した、と云う訳で、この通りだとすれば確かに大した仲ではない。最後に「あてずっぽ」と断りながら、その文業について印象を述べている。
 さて、赤マント流言の考証では時期と場所、それから体験者の年齢が、大事になって来る。改めて竹中氏の生年に関する3つの説、①昭和3年3月説と②昭和5年3月説・③昭和5年5月説を眺めると、やはり①昭和3年(1928)3月生、すなわち昭和2年度生とすれば、昭和2年(1927)6月5日生の小沢信男と同学年になるから「同年輩の友」により説得力を増すような印象を受ける*2。中年以上になってしまえば2歳差、3歳差など大した違いではない。しかし若い頃は、寺島珠雄が①説を強く推す理由としていたように、僅かな差が、同じ出来事に対する印象を決定的に違えてしまう。そのことは、私がこれまで博捜して来た赤マント流言の回想にも顕著である。だから私は当初、竹中氏の年齢について、①昭和3年3月生を是と仮定して検討して見た。寺島珠雄の文章は、その考え方には大いに共鳴したのだが、そこに挙がっている例はむしろ①への反証となっているようである。
 ついでだからもう1つ、①への反証を示して置こう。
 「竹中労単行本未収録作品」の3つめ、129~131頁、竹中労「わが父・竹中英太郎 ――懐古展によせて」は、末尾(131頁下段12行め)に「(『うえの』89年6月号)」とある。ここに129頁上段3行め「父」に4行め「肩車」されて6行め「吉原仲之町」を歩いたときのことを回想している。10~12行め「父は/母と別居し、どちらも息子を手放そうとせず、長い争いが/つづいていた」中で、母の許にいた竹中氏を131頁上段2~3行め「母の留守にやって/きて」連れ出していたのである。130頁下段19~20行め「おそらく三つか四つ、それは父が/絵筆を折ったあとさき」とあって、その時期は129頁下段10行め~130頁上段1行め「‥‥「画伯さまの/甘い生活」にあきたらず、父は絵筆を折った。昭和十年、/ここにかかげた『大江春泥画譜』、そして『鬼火』(横溝正/【129】史作)が戦前最後の作品である。」とある。但し本書には『大江春泥画譜』は掲載されていない。
 確かに竹中英太郎が「挿絵画家としての生活と決別」した時期は「湯村の杜 竹中英太郎記念館」」HPのトップページ及び「竹中英太郎年譜」も同様で、図書館OPAC の検索等で見ても裏付けられる。
 そうすると、やはり昭和3年(1928)生では早過ぎる。もちろん、晩年の回想だから、当時の父の状況等に記憶違いがあるかも知れないけれども。
 そのことは、130頁上段14~15行め「竹中英太郎は昭/和十一年、二・二六事件に連累」し、下段7~11行め、

‥‥。昭和十四年、満洲ハルビンで再検挙、翌る十五年に離婚成立。わたしは父の/もとへ、引きとられることになった。
 母と別れるのはやはり辛く、物干台にかけ上って、柱に/すがりつき泣き叫んだ。‥‥


 これも昭和3年(1928)生とすると幼すぎるように感じられる。そういう子もいるかも分からんけど。(以下続稿)

*1:ルビ「ばくぎやく・じつこん」。

*2:同じ小学校ではないのだけれども。もちろん、小沢信男「わたしの赤マント」が活写するように、同じ小学校だからと云ってぴたりと一致する訳でもないのだが。