瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

竹中労の前半生(01)

 竹中労の赤マント流言体験を(ごく僅かな記述ですが)取り上げようと思って検討を始めてすぐに、竹中氏の生年月日が明確にされていない、と云う事実に突き当たりました。
 私はこういう体験を検討する際には、年齢・学年・場所を押さえて置きたいと思っておるのですが、竹中氏は何故かこれを自ら曖昧にしているのです。1月3日付「赤いマント(329)」から1月9日付「赤いマント(335)」までは、ほぼ KAWADE 道の手帖『竹中 労』に拠っておりましたので、同書に見える3説を検討しておりましたが、その後、色々見ていくうちに更に増えて、次の5説になっております。
昭和3年(1928)昭和2年
①3月3日
②3月30日
昭和4年(1929)
昭和5年(1930)
④3月30日 昭和4年
⑤5月30日 昭和5年
 これまでは、飽くまでも赤マント流言に関する資料考証のために竹中氏の年齢の確認をしていると云う立場だったので、2月16日付「赤いマント(352)」まで「赤いマント」と云う題で通して来ましたが、流石に関連書籍の内容まで検討していると(今後の検討に関わって来るからだとは云え)赤マント流言からは全く離れてしまいますので、ここらで題を「竹中労の前半生」に改めることとしました。
 竹中氏は、何故か自ら年齢を詐称していたために、前半生の回想の年齢・学年がまちまちになっています。
 こうした混乱は、竹中労に触れた回想や、父の竹中英太郎の伝記にも影響を及ぼしております。
 私は最初、②説を採る寺島珠雄「美的浮浪者の過程 ――私記・竹中労」及び『竹中労・別れの音楽会』パンフレット所収「竹中 労 年譜」と、④説を採っている KAWADE 道の手帖『竹中 労』編集部 作成「竹中労略年譜」とを対比することで、④説に従うべきだ、との結論に達しました。しかし、④昭和5年3月30日生とするのは KAWADE 道の手帖『竹中 労』編集部だけで、他にこれの説を採っている文献はありません。すなわち、典拠が見当たらないのです。しかも同じ河出書房新社から同年刊行された鈴木邦男竹中労――左右を越境するアナーキスト』にこの年譜は転載されているのですが、こちらでは1月23日付「赤いマント(337)」の後半に見たように⑤昭和5年5月30日生説を採っています。1月22日付「赤いマント(336)」の書き振りを見る限りでは、別に著者の鈴木氏の意見で修正したと云う訳でもなさそうです。
 実は、この⑤説こそが、2月12日付「赤いマント(348)」に引いた『竹中労・無頼の哀しみ』にて木村聖哉が述べているように、戸籍に基づく(とされる)公式な生年月日で、新聞の死亡記事もこれによって年齢を記載しています。
 しかし私は、木村氏が強調する竹中英太郎の証言は④説にも援用出来る上に、他の資料と合わせると⑤説の可能性も殆どないと思っているのです。
 これから竹中氏本人の回想や各種関連文献を引用して竹中氏の前半生を辿り直して見たいと思っているのですが、生年月日が曖昧なままでは混乱の因になりますから、先に④説に決定して置きましょう。もちろん、飽くまでも、根拠となる決定的な資料が提示されるまでの、作業仮説に過ぎません。余程の事由がない限り、従来提示されている諸説のうちでは④説の蓋然性が高い、と云うだけのことで、何が何でも自説を墨守したいなどとは思っておりません。――竹中英太郎が保管していて竹中労に返したと云う小学校の通信簿によって、生年月日の問題がなくなることこそが望ましい。しかし混乱した記述に筋を通す作業は、これが実現したとしても決して無駄にはならないでしょう。
 さて、小学生時代のことは、竹中氏の回想がより曖昧になっておりますので、中学の方から確認してしまいましょう。
 1月6日付「赤いマント(332)」に見たように、「竹中 労 年譜」と「竹中労略年譜」はともに、昭和19年(1944)条に「学徒勤労動員で神奈川県大船の海軍燃料廠に。」と云うことになっていました。これについては当ブログでも既に、本人の証言を2月9日付「赤いマント(345)」に引いた、鈴木義昭『風のアナキスト 竹中労』に収録されている竹中氏本人のインタビューにて見ておりますし、2月15日付「赤いマント(351)」に引いた木村聖哉竹中労・無頼の哀しみ』の、竹中氏本人の回想「青春遊泳ノート」の記述に基づく竹中氏の前半生の素描にも、見えておりました。
 動員先は学校毎、学年毎に異なりますから、山梨県甲府中学校で昭和19年に海軍燃料廠に動員されたのが何年生なのかを調べれば、竹中氏の学年が分かります。そこから遡れば、竹中氏が何年(何年度)の生れなのかが分かるはずです。(以下続稿)