瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(331)

一昨日からの続き。
・KAWADE 道の手帖『竹中 労』(3)生年月日③
 それでは寺島珠雄「美的浮浪者の過程 ――私記・竹中労」から、「竹中労 年譜」に関する記述を見て置こう。
 まづ〔1〕「夜から朝へ」にて、年齢の問題を次のように遠回しに切り出す。133頁上段6~11行め、

‥‥、横浜の/伊藤信吉さんが電話をくれた。
「六十とはね、いくらなんでも早すぎたね」
 竹中の死を伊藤さんは言うのだった。「ぼくは一度しか/会ってない人だけど、あなたは深いつきあいなんでしょう/……」


 そして〔2〕「マヴォ』を追う」に、「日本古書通信」91年6月号に掲載された詩人・伊藤信吉(1906.11.30~2002.8.3)の「『マヴォ』とその周辺」を引きながら、その「一度」きりの面会のことについて述べ、135頁上段11行め~下段2行め、

 この雑誌は毎月十五日発行で月を先取りせず当月号を称/する。で、六月号は竹中の死んだ翌月十五日発行、伊藤さ/んは竹中の死にも触れている。次のように。
 ――その竹中氏が五月十九日死去された。朝日新聞の死/亡記事は「よろず売文業を掲げて幅広いルポ評論活動を続/けて来た」と報じた⦅略⦆そういう(場違い)のような人/が、私と同時期に『マヴォ』入手に苦心していたのである。/縁ともいえぬ遠い思い出ながら哀悼の意を表する。氏は六/十歳の死である……
 掲載誌の明白な誤植二ヶ所は勝手に訂正したが、これで/前出させた伊藤さんの電話と接続した。そして伊藤さんが/強調する通り「三十年ほど以前」に、竹中は『マヴォ』を/【135上】追って未知の伊藤さんを訪ねたのである。計算は簡単、竹/中の三十歳前後だ。


 そして「マヴォ」と云う雑誌について説明した後、この節の最後、下段19行め~136頁上段5行め、

 そんな雑誌を追った竹中の姿を仮に三十歳と押えて年譜/(別れの音楽会プログラム)を見ればこうなっている。
 ――1958(昭33)30歳。⦅甲府から⦆上京、東京毎/夕新聞社に入社。文化部に籍をおき、浅草・新宿・池袋な/【135】どのストリップ劇場をまわり猥雑な雰囲気のなかに沈潜韜/晦の日々をおくる……
 しかし「猥雑な雰囲気のなかに」いても伊藤さんを訪ね/て『マヴォ』の実見を乞う竹中でもあったとしつこく言っ/ておこう。


 見事な繋げ方で、ほとほと感心するより他ないが、しかしここには二重基準である。――そのことを説明するために、いや、そうでなくても重要な点であるので、〔3〕「年齢と上野・浅草」の冒頭はやや長めに抜いて置こう。136頁上段7行め~下段1行め、

 竹中は一九三〇・昭和五年生れということになっている。/新聞の死去年齢もその起算だし、伊藤さんも六十歳を哀悼/してくれた。
 竹中の父英太郎の年譜は『竹中英太郎作品譜 百怪、我/ガ腸*1ニ入ル』(90年三一書房)の巻末に「画譜」の名称で/載っているが、そこには次のように記されている。
 ――昭和五年(一九三〇)⦅英太郎は⦆24歳⦅10行略⦆/長男・労、誕生。(実際は昭3かも、戦災戸籍焼失・復元/のさい誤記?)……
 一方、別れの音楽会プログラムの「竹中労年譜」では、/その復元戸籍に対して「旧制中学在籍簿」を援用、一九二/八・昭和三年説に拠った満年齢を記載している。従って竹/中の死去年齢が「63歳」とある。誤りはないだろうがやや/こしい。竹中の生れ育った戦前戦中の日常習慣ではかぞえ/どし*2だったからだ。しかも竹中は三月三十日生れ、小学校/は「七つ上り」、従って中学も一年早い。


 前回抜いた、本書の「竹中労略年譜」の「一九九一年」条には『百怪、我ガ腸ニ入ル ―竹中英太郎画譜』とあった。「一九九〇年」条にも、190頁上段23~24行め「‥/‥。『百怪、我ガ腸ニ入ル ―竹中英太郎画譜』|(三一書房/企画・編集・執筆)、‥‥」とあった(改行位置「|」)のだが、寺島氏の云う書名が正しい。

 しかしこの本は竹中氏の生前に出ているのである。――戸籍の再製は松本清張砂の器』でお馴染み(?)だが、竹中家の戸籍は何処で焼けたのだろう。そして「竹中労 年譜」に援用されている「旧制中学在籍簿」とは、どのようなものなのか。私立の高輪中学校(現・高輪中学高等学校)のものか、それとも山梨県甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)のものだろうか。高輪中学も甲府中学も戦災を免れている。いや、折角なら生年月日だけでなく、入学の年度等分かることは全て記載して置いて欲しかった。そこもまた、甚だ重要なのだ。竹中労事務所に複写など残されていないであろうか。
 それはともかく、これだとそもそも「旧制中学在籍簿」が持ち出される前に、何故昭和3年(1928)生説があったのかが分からないのだけれども、とにかく「竹中労 年譜」はこちらの説を採って、昭和33年(1958)を「30歳」としているのである。
 ところが何故か寺島氏は伊藤氏の云う「六十歳」の「三十年ほど以前」と云うことで「竹中労 年譜」の「1958(昭33)30歳」条にこれを結び付けてしまう。――しかし、これは強引過ぎやしないだろうか。竹中氏の死去年齢が63歳か60歳かはともかく、むしろ尊重すべきは、平成3年(1991)から「三十年ほど以前」の方であるはずである。
 その「竹中労 年譜」だけれども、寺田義隆「竹中労さんのページ」に、竹中労事務所の大村茂(1949~2009.12.11)*3が作成したこの「竹中労・年譜」が転載されている。但し『竹中労・別れの音楽会 プログラム』では昭和3年生としていたはずが、寺田氏はこれを昭和5年生に直して載せているのである。寺田氏のブログ「竹中労はまとまらない!?」の、2016年11月1日 |「過激派としての竹中労 その3「湿った火薬 小説革自連」で描かれた竹中労さん」では、

‥‥、この年譜の原本は竹中労さんが亡くなった後に開催された「竹中労 別れの音楽会」に参加された方に主催者側から配られたパンフレットの中の年譜の記載をそのまま写したものです。年譜を作られた大村茂氏が故人となっているため改めてその内容についてお伺いすることはできませんが、‥‥

と述べているので、生年を変更したのについては、寺田氏なりの理由があると思われるのだけれども。
 とにかくここから、伊藤氏の云う「三十年ほど以前」の条々を見て置こう。「1959|昭和34|29歳」条「無署名風俗ルポを「週間スリラー」に書く。7月・東京毎夕新聞退社独立、ルポ・ライターを名乗る。11月・「女性自身」デスク井上清にスカウトされスタッフ・ライターとなる。」、「1960|昭和35|30歳」条「安保闘争では「若い日本の会」に参加するが作家文化人の夜郎自大さを批判して脱退。芸能人・皇族、はては本物の死者まで150余編の手記を創作、代作。」、「1961|昭和36|31歳」条「安保闘争の私的総括のはて「党」を内部から変革すべきだと復党。「なんという愚かな妄想だったことか」。」、「1962|昭和37|32歳」条「6月・中野区沼袋・帰山荘に転居。」ここまでで良かろう。伊藤氏を訪ねたのは上京したての頃とするよりも、東京毎夕新聞を退社、或いは「若い日本の会」脱退などに絡めた方が尤もらしい。
 いや、むしろ、竹中氏が訪ねたのが135頁上段9行め「杉並区荻窪の小宅(借家)」であったことに注目すべきであろう。(以下続稿)

*1:ルビ「ハラワタ」。

*2:「かぞえどし」に傍点「ヽ」を打つ。

*3:2月10日追記】投稿時「2009.12.11歿」としていたが生年が判明したので改めた。