・鈴木邦男『竹中労』(1)生年月日⑥
年明けから1月9日付(335)まで、竹中労の生年月日がいつか、ほぼ KAWADE 道の手帖『竹中 労』のみを資料として、一通り筋を通して見た。
一応、これで良いと思っている。
しかし、検算をしないといけない。
同じ意見を既に唱えている人がいれば、その priority を尊重しないといけない。同じ資料を使って、これを強力に唱えている人がいれば、私が同じことを繰り返す必要はない。取り上げる資料が違っていれば、私が違った側面から補強することにも意味があろう。
とにかく、そのためには竹中労に関する資料と、竹中労の子供時代のことだからその父の竹中英太郎に関する資料を、眺めて置く必要がある。論文ならば先に済ませてから出すべきなのだが、ブログだから順序が前後する。
そこでまづ、 KAWADE 道の手帖『竹中 労』の佐高信との対談(2011年4月18日)で、竹中氏に会ったことがないと云う佐高氏に竹中氏の思い出を語っていた鈴木邦男が、同じ年の年末に同じ版元から出した次の本を借りて見た。
・河出ブックス 037 【人と思考の軌跡】『竹中労――左右を越境するアナーキスト』2011年12月20日 初版印刷・2011年12月30日 初版発行・定価1300円・河出書房新社・227頁・B6判並製本
「全てを疑ってかかれ」「盲信するな」と竹中は言っていた。集団思考ではなく、自分の頭で/考えろ、と言っていた。
「竹中労には騙されたな」「やられたな」と(今にして)思うことがある。本文を読んでもら/えば分かる。何度もそんな体験をした。しかし、不愉快な体験ではない。面白い推理小説を読/んで、ラストの大ドンデン返しに息を飲み、驚嘆する。あの至福の体験と同じなのだ。これか/らも「謎解き」は続くだろう。
竹中労は生まれた時からミステリアスで もう伝説になっている。大体、生まれた年が分か/らない。奈良時代や戦国時代の話ではない。昭和になってから、そんな奇怪なことがあるのだ/ろうか。では、実在の人物ではないのか。まさか、神武天皇やヤマトタケルでもあるまいし。/没後、川口リリアホールで開かれた「竹中労・別れの音楽会」のパンフレットにある「竹中労/年譜」によると、
「1928(昭3) 3月30日・東京・牛込区肴町で出生」とある。と同時に、こう書かれて/いる。
〈戦災後復活した戸籍では「30年5月30日出生」だが旧制中学校在籍簿には「28年3月30日」/とある。名ははじめ「乱」後「労」。「父親がアナキズムからボルシェヴィズムに転向したゆ/え」という〉
では、一九九一年に六十三歳で亡くなったというが、本当は六十一歳だったのか。どっちに/しても若すぎる。名前も初めは乱だった。竹中乱か。こっちの方が、「アナーキスト竹中」に/ピッタリだ。ところが、父親がボルシェヴィズムに転向し、息子の名前も「労」に変える。こ/んなことがあるのか。奇怪だ。
引き続き「竹中労 年譜」にあたると、竹中労は十七歳の時、甲府中学校全学ストライキを/指揮、戦犯教師を追放するがみずからも退学処分となる。
恐るべき十七歳だ。そして十九歳の時、日本共産党に入党。父親の転向に合わせて、乱から/労へ。親孝行な子供だ。そのあと、共産党に長くいて、二度除名になる。‥‥
佐高氏との対談では「竹中労 年譜」が「旧制中学校在籍簿」により昭和3年(1928)3月30日生としていたのに素直に従っていたのが、ここでは「本当は六十一歳だったのか」と戸籍の方を真なりとしているようである。尤も、平成3年(1991)5月19日に死んだのだから、昭和5年(1930)5月30日生ならば「六十一歳」ではなく満60歳のはずである。
しかし本文では、やはり昭和3年(1928)3月生説に従っているようだ。11~43頁「第一章 呂律の人・竹中労」の1節め、12~16頁3行め「「天皇はそんなに大事なのか?」」は、12頁6~7行め「一九七六年十二月八日、東京・大手町会館での出来事」を回想したものだが、8行め「竹中は四十八歳、僕は三十二歳」とする。但しこれも鈴木氏は昭和18年(1943)8月2日生だから「三十二歳」ではなく満33歳である。(以下続稿)