・木村聖哉『竹中労・無頼の哀しみ』(2)生年月日⑫
昨日の続きで、年齢に関する記述を見て置こう。
木村氏は「はじめに」で、7頁3~4行め「‥‥、一九九一年(平成三年)に六十歳でこの世を去った。」とする。8頁2~4行め、
竹中さんの本名は「労」だが、通称は「労さん」と呼ばれていた。昭和五年五月三十日生ま/れ。父英太郎が最初に付けようとした名前は「乱」。それが「労」へと変わったのは英太郎の思/想がアナキズムからボルシェビズムへ転向したからだと聞く。*1
と云う訳で、公式(?)発表通りの誕生日そして年齢を採用していることが分かる。
ここで、竹中氏と関わった時期の木村氏の経歴、年齢も見て置こう。12頁10~12行め、
私は大阪労音事務局へ就職したのは、正式には一九六四(昭和三十九)年四月だが、人手が足/りないというので前年の十一月から出勤した。まだ大学四年在学中で、一週間のうち二日間は学/校、四日間は労音という具合だった。
昭和39年(1964)をピークに昭和40年(1965)から会員が減少し始めたことに歯止めをかけるため、大阪労音の例会(コンサート)で歌謡曲を取り上げることになり、昭和41年(1966)8月例会に美空ひばりを初出演させるに先立って、その半年前、前年に『美空ひばり』を刊行していた竹中労を招いて学習会の講師を頼んだ。この竹中氏のレクチャー講演にすっかり感激した木村氏が同僚3人と竹中氏を引き留めて居酒屋、さらに曾根崎警察署の裏辺りの安旅館で夜を徹して語り合ったことが最初の出会いで、23頁2行め「竹中労さんと大阪労音の協力関係は、私の知る限り四~五年続いた」と云うが、木村氏は制作担当したショーが莫大な赤字を出した責任から、会員激減のためのリストラ案の希望退職に応じて昭和44年(1969)3月末に退職、34頁12行め「二十八歳の春」に「単身上京し」ている。
上京後、39頁9~10行め「ある人の紹介で西武流通グループの傍系会社へ/入社したものの、社風に合わず一年足らずで退職」、そんな折に大阪労音でちょっと面識のあった「話の特集」編集長矢崎泰久(1933.1.30~2022.12.30)と再会、40頁13行め「アルバイトで矢崎さんの仕事を一カ月ほど手伝った後、誘われてそのまま横滑りする形で」39頁8行め「 正式に入社したのは七〇年六月。三十歳になって間もない頃だ。」3~4行め「 ここに在籍したのは創刊五年目から十五年目まで、時代でいえば一九七〇年から七九年までの/約十年間である。‥‥」52頁7~10行め、
『話の特集』入社後しばらくして、私は竹中さんの連載を担当することになった。労音時代に/知遇を得ていたし、私自身も竹中担当を望んだからである。
時に竹中労、四十歳。気力・体力ともに充実し、脂が乗った時期だった。
執筆者としての竹中さんはあまり手がかからない人だった。‥‥
竹中氏と矢崎氏の関係について本書は、竹中労責任編集の「話の特集」臨時増刊号『ザ・ビートルズ・レポート』の失敗による倒産、竹中氏の連載「続・メモ沖縄*2」の七五年十二月号での打ち切り、革新自由連合(革自連)と映画『戒厳令の夜』の失敗などを取り上げて詳述しているが、詳しくは直接本書に拠られたい。ここで私が注目したいのは矢崎氏との関係を叙した第三章から第七章までの最後、131頁8~12行めに、
私とのインタビューを締めくくるように、矢崎さんは言った。
「竹中さんはぼくより五年くらい年上だったけど、いま思うといろんな意味で〝不思議な親/友〟だったね。あんまり強引なのでうんざりすることもあったけど、彼がカーッと燃えて仕事/をする時は、ほんとうにエネルギッシュで素晴らしかった。あの迫力には誰も勝てないよ」
口の悪いことでは人後に落ちない矢崎さんだが、その言葉には実感がこもっていた。
とあることで(引用は1字下げ、前後1行空け)、矢崎氏が昭和8年(1933)1月30日生であってみれば「五年くらい年上」とは昭和3年(1928)3月30日生説を採っていることになろう。昭和5年(1930)5月30日生説だと2年8ヶ月上、学年だと2学年しか違わない。
いや、この他にも木村氏は、昭和3年生説に触れているはずである。103頁9行め「 第二回「大演説会」は一九七三年五月、神田一ツ橋の共立講堂でおこなわれた。‥‥」12行め「 『風のアナキスト竹中労』(現代書館)の著者・鈴木義昭は当時十五歳の高校生だったが、『話/の特集』か何かで知って出掛けた。‥‥」とあって、当然と云えば当然なのだが『風のアナキスト 竹中労』にも目を通している。その原文は2月8日付(344)に抜いて置いたが、同じ記事にて触れたように、インタビュー記事で竹中氏本人が「臍の緒書き」を根拠に昭和3年3月生説を主張していたことに(多分)従って『風のアナキスト 竹中労』では昭和3年生説で通している。その後も鈴木氏が昭和3年生説を固持し続けていることは1月24日付(338)にも触れたところである。
或いは、194頁11~12行め「‥‥没後四カ月経った一九九一年九月二十日、「竹中労・別れの音楽会」が埼玉県川口リリ/アホールで催された。‥‥」195頁11~13行め、
この日、参加者全員にパンフレットが配られた。表紙は竹中英太郎の絵を使い、曲目および出/演者紹介ほか、ウチナーンチュ(沖縄人)による追悼座談会、竹中労の詳細な年譜が入っていて、/なかなかよくできている。本書執筆に当たっても、大いに参考にさせてもらった。
とあるのだが、この『竹中労・別れの音楽会』パンフレット所収「竹中 労 年譜」は1月5日付(331)等に見たように「1928(昭3)」条に始まっていて、昭和3年3月生説なのである。
すなわち、木村氏は「竹中 労 年譜」や竹中労本人のインタビュー、或いは42頁15行め「長く、深く、ややこしい」関係だった矢崎泰久の発言など、普通に考えたら信憑性が高いものと判断されそうな資料に複数触れながら、これを採用していないのである*3。
次回、木村氏が昭和3年説を採用しなかった根拠と、前回予告した「青春遊泳ノート」の、木村氏の紹介を見て行くこととしよう。(以下続稿)