・鈴木邦男『竹中労』(2)生年月日⑦
91~141頁「第三章 群れるから無力なのだ」の後半、鈴木氏が東郷健の芝居を襲撃した事件についての鈴木氏を始めとする当事者たちの記憶の食い違いは、回想と云うものが如何に信用ならないものであるかの好例として興味深いのだが、当面の問題には関係しないので当ブログでは割愛して、143~178頁「第四章 科学から空想へ――左右連携のために」に引かれる、144頁2行め「一九八三年八月十九日」に「出所」した「野村秋介さん」と、6~7行め「八三年九月五日。浅/草の「鳥金田」」で「「新雑誌X」編集長の丸山実氏が司会をした」竹中氏との対談での発言に注意して置こう。8~9行め「「新雑誌X」(八三年十一月号)に載った。又、その半分ほどは一水会機関紙「レコ/ンキスタ」(八三年十一月号)に載った。」とある。150頁1~9行め、引用は1字下げで前後を1行分ずつ空ける。
のっけから凄いことを言った。そして自分の子供時代の話をする。
私は子供のころ親父の関係で随分と右翼の人にも会ってるんだ。中野正剛とか、大川周明/とか、頭山満とか。大川さんは、きさくな人でね、よく肉マンなんかとってくれた。
今、読み返してみて驚いた。右翼の巨頭たちに囲まれて育ったんだ。その一人一人について、/詳しく話を聞いておくべきだった。残念だ。こうした子供時代の環境が、後の竹中労の思想を/作ったのだ。こう言っている。
私はね、誕生百日目に、水平社の松本治一郎に抱かせるか頭山満に抱かせるかで親族会議/を開き、松本治一郎に落着いた。それで後年は左翼に籍を置く。
じゃ、頭山満に抱かれていれば右翼になったのか。‥‥
大川周明(1886.12.6~1957.12.24)を除く中野正剛(1886.2.12~1943.10.27)頭山満(1855.四.十二~1944.10.5)松本治一郎(1887.6.18~1966.11.22)の3人は福岡県出身、竹中英太郎と同郷と云うことになる*1。「右翼の人」に会ったのは恐らく父・竹中英太郎の立会鉄工所時代――昭和14年(1939)9月から昭和17年(1942)5月――頃、昭和15年(1940)に父に引き取られてから、昭和17年(1942)か昭和18年(1943)に甲府に疎開するまで、と云うことになろう。
しかし、それ以上に私が驚いたのは、巻末224~227頁「竹中労 略年譜」である。これは KAWADE 道の手帖『竹中 労』巻末188~190頁「竹中労 略年譜」と同じものらしい。鈴木氏は全く関与しておらず、 KAWADE 道の手帖の編集部が作成したものを、同じ版元の5ヶ月後の出版物に流用した、と云うことになりそうだ。
すなわち、1月4日付(330)に引いた KAWADE 道の手帖『竹中 労』の「竹中労 略年譜」の末尾、190頁下段12~15行にあった断り書きが、本書でも227頁下段1~4行めにそのまま入っている。KAWADE 道の手帖『竹中 労』では各箇条、まづ1行めにゴシック体で西暦年を示し、次の行から明朝体でその年の著述や出来事を段落分けなしで示し、前後1行分ずつ空けていたが、本書はゴシック体の西暦年の下、1字分空けて明朝体の説明になり、前後も詰めている。
1字も漏らさず見比べた訳ではないが、ざっと見たところ「一九七九年」条、KAWADE 道の手帖『竹中 労』189頁下段2行め「(株)」が、本書では226頁上段2行め「㈱」となっているくらいしか異同は見付けられなかった。1月5日付(331)に見た「一九九〇年」条と「一九九一年」条の『百怪、我ガ腸ニ入ル ―竹中英太郎作品譜―』を『百怪、我ガ腸ニ入ル ―竹中英太郎画譜』とする誤りも、そのまま踏襲している。
いや、1箇所、実は肝心なところが違っている。1月3日付(329)に見た冒頭「一九三〇年」条、KAWADE 道の手帖『竹中 労』では188頁上段4~8行だったが、本書では次のようになっているのである。224頁上段2~5行め、
一九三〇年 五月三〇日、東京・牛込区に生まれる。/何度かの転校ののちに品川区立会川へ移り、鮫浜小/学校卒業。高輪中学校に入学。再婚した英太郎の元/に引き取られる。
誕生日が KAWADE 道の手帖『竹中 労』では「三月三〇日・」だったのが本書では「五月三〇日、」となっている。これは前回も触れた「竹中労 年譜」の戸籍にあると云う日付と一致する。そうすると KAWADE 道の手帖『竹中 労』が「三月三〇日」としていたのは一体何処から出て来たのか、「旧制中学校在籍簿」にあると云う昭和3年の誕生日が「三月三〇日」なのだが、同じ版元の、2011年7月と12月の出版物、殆ど一致しているのにここだけ違っているのである。――昭和5年「三月三〇日」がそもそも誤りであったのを「五月三〇日」に訂正したのだろうか。私は「三月三〇日」説が尤もらしいと考証したのだけれども、もしこれが「五月三〇日」の誤りであったとするなら根拠を失うことになる。
KAWADE 道の手帖『竹中 労』は再版されたのだろうか。されているとしてここは「五月三〇日」になっているのだろうか。
とにかく、ここに来て更に色々な本を見て置く必要に迫られたのであった。(以下続稿)