瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(341)

山口瞳『男性自身』四六判並製本
 山口瞳(1926.1.19~1995.8.30)も赤マント流言についてそのエッセイ『男性自身』で触れている。
・男性自身シリーズ1『男性自身』昭和 四 十 年 七 月二十日発  行・昭和 六 十 年 五 月二十日二十一刷・定 価 八八〇円・新潮社・255頁

・男性自身シリーズ2『ポケットの穴』昭和四十一年 四 月三十日 発 行・昭和五十一年十二月 五 日 十二刷・定 価 七五〇円・新潮社・258頁「男性自身シリーズ」全27冊を一通り、目を通す余裕はないので最初の2冊を借りて見た。序跋の類はなく初出などの記載もない。そこで、単行本に収録されていない77篇を「山口瞳の会」主宰中野朗が纏めた次の2冊も借りて来た。
・「男性自身」1963-1980『最後から二冊目の巻』二〇〇四年一一月二〇日初版印刷・二〇〇四年一一月三〇日初版発行・定価1400円・河出書房新社・225頁・「男性自身」1980-1986『これで最後の巻』二〇〇五年一月二〇日初版印刷・二〇〇五年一月三〇日初版発行・定価1400円・河出書房新社・232頁 新潮社版には回数も掲載時期も記載されていないが、この2冊には奥付の前に「●初出一覧[『週刊新潮』連載。( )内数字は、連載の回数番号]」があって、これとこの連載全てを纏めた『山口瞳 電子全集』によって判明する回数と合わせると、掲載号も見当を付けることが出来そうなのである。
山口瞳 電子全集1 『「男性自身」Ⅰ 1963~1967年』配信日2016.12.22・小学館・1344頁 もちろん購入しないと読めないが「試し読み」で目次は閲覧出来る。
 ただ、例えば昭和40年(1965)掲載の58回から108回の計51回の場合、新潮社版「男性自身シリーズ」から漏れて『最後から二冊目の巻』に収録されているのは「これが野球だ 65.11.30(103)」の1回だけなので、当てが外れた。そこで検索して見るに「週刊新潮」は「国立国会図書館限定」公開なので閲覧出来ないが「国立国会図書館デジタルコレクション」で、こちらは題は分からないものの回数と掲載号は分かるのである。
 そうすると『山口瞳 電子全集』の「試し読み」と「国立国会図書館デジタルコレクション」を組み合わせれば「男性自身」の回数と題・掲載号は確定出来ることになる。それぞれ所定の手続きを取らないと閲覧は出来ないが。
 ところで、私は赤マント流言に限らず、出来事の回想を検証する際、その当時の年齢や住んでいた土地、通学・通勤先などを明らかにしないといけないと思っているのだけれども、この山口氏も、年明けからしばらく検討してまた近々再開しようと思っている竹中労と同様、生年月日に問題があることを知った。すなわち、P+D MAGAZINE「【山口瞳電子全集】生誕90周年 山口瞳・史上初の完全電子全集」の「山口 瞳(やまぐち ひとみ)プロフィール」冒頭に「1926年1月19日東京で生まれ。同年同月に異母兄が誕生したため、11月3日生まれと届けられる。‥‥」とある。この異母兄を始めとする自らの出生にまつわる謎は、山口氏本人が長篇小説『血族』にて解き明かしている。その『血族』も借りて来たが、第27回菊池寛賞受賞作で、NHK「ドラマ人間模様」でテレビドラマ化(全5回)もされており、もちろん山口氏の愛読者による検証も既にあるだろうから、何も知らなかった私は下手に手を出さないで置こう。
 さて、山口氏は戸籍上は9ヶ月半遅い生年月日となっていて、異母兄とは同学年にならないようにしたもののようである。従って、実際には大正14年度生なのだがわざと遅らせて昭和元年(大正15年)度生として進学していることは、プロ野球選手の黒尾重明(1926.7.20~1974.10.17)の Wikipedia「来歴・人物」節の冒頭に「東京都麻布出身。東町小学校では作家の山口瞳と同級生だった[2]。」とあることから察せられる。なお、リンク先は既に存在しない。黒尾氏と同級生であったことは『最後から二冊目の巻』所収「男性自身」138回「学校の教育」(1966.7.30)に記載があるのを見付けた。それから、2019年7月26日付「吉行淳之介『贋食物誌』(3)」に書影を貼付した、ちくま文庫『酒呑みの自己弁護』(二〇一〇年十月十日 第一刷発行・定価1300円・筑摩書房・469+v頁)243~246頁「黒尾重明」に、243頁14行め「 黒尾重明と私とは、東京港区の東町小学校での同級生である。むろん野球部員である、/【243】‥‥」とあった。麻布の「東町小学校」は現・港区立東町小学校。黒尾氏や東町小学校の記述は、探せばもっと見付かるだろう。
 そうすると小学校には昭和8年(1933)4月に入学、昭和14年(1939)3月に卒業しているはずである。Wikipedia山口瞳」項には「旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院を中退。」とある。Wikipedia麻布中学校・高等学校の人物一覧」には「山口瞳 - 直木賞作家 昭和19年卒」と見えている。この項で同年卒業なのは奥野健男(1926.7.25~1997.11.26)のみ。ちなみに1年前の「昭和18年卒」は上野一郎(1925.5.24~2015.12.27)のみ、1年後の「昭和20年卒」は5名、北杜夫(1927.5.1~2011.10.24)羽佐間重彰(1928.5.3生)中松義郎(1928.6.26生)神吉拓郎(1928.9.11~1994.6.28)牟田悌三(1928.10.3~2009.1.8)――昭和2年度生で5年生の北氏と昭和3年度生で4年生の羽佐間氏たちが同時に卒業しているのは、1月28日付「先崎昭雄『昭和初期情念史』(4)」に参照した「五中・小石川デジタルアーカイブ」の「1944年度 (昭和19年度)」条の「修業年限4年制の施行」節の註に挙がっている、昭和18年(1943)10月12日閣議決定「教育ニ関スル戦時非常措置方策」の「第二 措置」の「(三)中等学校」の1条め「(イ)昭和十九年ヨリ四学年修了者ニモ上級学校入学ノ資格ヲ付与シ昭和二十年三月ヨリ中等学校四年制施行期ヲ繰上ゲ実施ス」によって、昭和18年1月21日勅令第36号「中等学校令」の「第七条 中等学校*1ノ修業年限ハ四年トス」により修業年限が従来の5年から短縮されたのが「第十六条 本令ハ昭和十八年四月一日ヨリ之ヲ施行ス」すなわち昭和18年入学の学年から施行されるはずであったのが、昭和16年入学の学年から繰り上げて実施することとなったためである。
 とにかくこれで、山口氏が大正15年度生として小学校・中学校時代を過ごしていることは確定して良かろう。そうすると昭和14年(1939)2月の赤マント流言に遭遇したのは、丁度麻布中学受験の頃である。そして4月に麻布中学に入学してから、赤マント流言のことが話題に上ったらしいことが、長期連載のエッセイ「男性自身」から窺われるのである。(以下続稿)

*1:「第二条 中等学校ヲ分チテ中学校、高等女学校及実業学校トス」。