瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

先崎昭雄『昭和初期情念史』(4)

・旧制中学から新制高校
 著者の中学時代のことは「第23章 旧制中学の日々」の冒頭、258頁2~10行め、

 私が入った旧制の東京府立五中は大正八(一九一九)年四月開校、まさに大正デモクラ/シー&大正リベラリズムの申し子のような学校で、立志と開拓と創作の精神がモットー、/制服は濃紺の背広上下に黒いネクタイだった。
 しかし、私たちの一学年前からその制服はみっともないカーキ色の国防服に変わり、ゲ/ートルまではかされた。それでいて三年生以上は従来のまま背広にネクタイだった。
 私が入学したのは、太平洋戦争突入四ヵ月後の昭和一七(一九四二)四月。
 それから三年後の敗戦直前に病を得て休学。
 けっきょく昭和二四(一九四九年)年*1三月、都立第五新制高校(現・都立小石川高校)/第一回生として卒業した。

と概要が述べてある。現在は東京都立小石川中等教育学校となっているこの学校の歴史は「五中・小石川デジタルアーカイブ」に詳しい。関係するところのみ引用して置くと、東京府立第五中学校は昭和18年(1943)「7月 東京都制施行により、東京都立第五中学校と改称」、昭和20年(1945)の「4月13日深夜から14日未明の城北大空襲により、校舎全焼‥‥」「4月25日 文京区明化国民学校に移転」明化国民学校は南に400mほどのところにある。「11月12日 滝野川区滝野川の旧陸軍東京第一造兵廠内青年学校に移転」、昭和21年(1946)「11月13日 小石川区同心町20番地の旧東京府立実業補習学校(青年学校)・尋常高等小学校跡に移転(現・文京区立茗台中学校のある場所、現・文京区春日2-9-5)‥‥」、昭和23年(1948)に学制改革で東京都立第五新制高等学校となり、昭和24年(1949)から男女共学、昭和25年(1950)「1月28日 東京都立小石川高等学校と校名改称」。そして昭和32年(1957)4月に戦災前の校地(現在地)に戻っている*2
 上野桜木町に最寄りの鶯谷駅から、学校に最寄りの巣鴨駅まで山ノ手線で通っていたことは、入学直後の昭和17年(1942)4月18日に遭遇したドーリットル空襲について述べた「第22章 初空襲の日」に見えていた。
 入学時に昭和2年度生が3年生、2年生は昭和3年度生、1年生が昭和4年度生である。
 敗戦直前の腎炎のことは1月26日付(2)に引いた「第25章 敗戦の日」の記述に見えていた。
 敗戦時に4年生で、昭和18年(1943)4月1日施行の中等学校令で中学校の修業年限は4年に短縮されていたが、昭和21年(1946)2月23日に5年に戻されている。但しこれには私の勘違いもあって「五中・小石川デジタルアーカイブ」の「1944年度 (昭和19年度)」条の「修業年限4年制の施行」節に拠ると「本来は1943年(昭和18年)に入学した生徒が4年を修了し卒業する1947年(昭和22年)3月に施行する予定であったが、この年4年生になった者から適用され、昭和20年3月には予定どおり5年で卒業となった22回生に加えて4年生が終わったばかりの学生が23回生として同時に卒業となった。」とのこと、過去記事を修訂する必要がある。「1945年度 (昭和20年度)」条には「3月 24回生卒業(昭和17年入学、4年生で卒業)/昭和21年2月中等学校令改正により修業年限5年に戻るが、4年で卒業生47名あり。/昭和17年入学で昭和22年3月卒業の25回生は166名。」とある。昭和21年3月の卒業生は、中等学校令改正前に卒業見込みで上級学校を受験して合格・進学することになった者などであろう。しかしそのまま在籍して昭和21年度に5年生に進学した者も多かった訳である。著者も昭和17年入学なので昭和21年3月でなくても翌22年(1947)3月に卒業するべきところが、4年次以降に1~2年分休学したため昭和23年度に発足した新制高等学校の3年生となって新制高等学校の第1回卒業生となったのである。
 さて、上記引用に続いて258頁11行め、2行取り3字下げの「*」を挟んで、259~262頁は蹴球部について述べている。259頁1~5行め、

 中学生になったころから私の情念はいつも暗欝だったが、体のほうは小学校以来かなり/の運動神経に恵まれていた。
 五中は東京でのいわゆるナンバースクールの一つだったが、同時に当時蹴球*3=サッカ/ーの名門校でもあった。二学期になると私は勇んで蹴球部に入った。私はたちまち夢中に/なった。‥‥


 続いて、8行め「あらゆる技や芸には開眼の瞬間というものがある*4」が、10行め「私なりに二度それらしき瞬間を自覚した記憶が、今でも鮮明によみがえる。*5」として、1年生と2年生で体験した「それ*6」について述べる。
 この辺りの記述は東京府立五中蹴球部と都立小石川高校サッカー部が創部50年を記念して作成した『誕生五十年』(昭和48年12月25日発行・紫躒会)に書いた「私なりの開眼」がベースになっているようだ。本書は未見だが「五中・小石川デジタルアーカイブ」に目次が紹介されている。
 260頁8行めまでこの充実した体験を述べて、9~12行め、

 さてその後おとずれる長いブランク……
 三年生になってからは勤労動員で、学園生活というものは消えた。
 再びボールに触れたのは三年間ほどの空白をおいて病後の、しかも敗戦後のひもじい時/代のさなかのことだった。


 この敗戦後のことは、若干ネットにて資料が得られたので次回に回すこととしよう。(以下続稿)

*1:ここの年の重複はママ。

*2:「校舎の変遷」項に詳しい。

*3:ルビ「しゆうきゆう」。

*4:ルビ「わざ」。また「開眼」には「かいげん」さらに傍点「・」2つ。

*5:「それ」に傍点「・」

*6:傍点「・」