瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(342)

山口瞳『男性自身』(2)
 昨日の続きで「男性自身シリーズ」で赤マント流言に触れた箇所を見て置こう。2つ見付けているが両方とも男性自身シリーズ2『ポケットの穴』に収録されている。
 29~33頁、この本の5篇め、連載の回数では61回(1965年2月1日号)の「いたずら」の冒頭のエピソード、29頁2~14行め、

 キントキという渾名*1の不良女学生がいた。近所の中等学校の生徒を公園に呼びだして殴ったり、/威して銭をとったりした。キントキという渾名からすると、赤ら顔で太った女学生だったのだろ/う。戦前の中学生であるから警察にとどけでたり教師に言ったりはしなかった。女学生に威かされ/るなんてことは恥ずかしいことだった。
 私はその話を全く信じていたわけではなかったが、学校の帰りに公園を通り抜けるときは戦々/兢々*2としていた。私をふくめて私の中学にはちょっと意気地のないところがあった。キントキは/仲間の女学生五、六人をいつも従えているという。相手が女学生であるから、喧嘩になってもよも/や負けはしないだろうという気持と、もし負けたら恥ずかしいという気持と半々であった。もしか/すると、キントキは、その頃騒がれた赤マントと同様に単に中学で流行した噂の怪物に過ぎなかっ/たのかもしれない。
 しかし、次のような噂からするとキントキは実在の人物であったような気がする。キントキにも/何人かのボーイ・フレンドがいた。新しいボーイ・フレンドができると友人になったしるしに彼女/は饅頭*3の折をプレゼントした。そして、目の前でいくつか食べさせるのである。‥‥


 前回見たように山口氏の通っていたのは麻布中学である。北杜夫『楡家の人びと』に東洋英和に通っている周二の姉藍子が、弟の通っている麻布中学の生徒をからかう場面があったように記憶するが記憶違いであろうか。今度確認して置こう。
 もう1箇所は50篇収録されるうちの41篇め、209~213頁「教育」で、連載の97回(1965年10月9日号)。やはり冒頭のエピソード(209頁2行め~210頁17行め)で、麻布中学の2人の教師を回想する。その前半を抜いて置こう。209頁2~14行め、

 私の中学には二人の人気のある先生がいた。学問のうえでの実力があって、人格者で、教育熱心/で、生徒と学校を心から愛していた。実力ということは私にはわからないが、大学からいくら誘い/がかかっても応じないという噂をきいていた。この点だけでも、受験用参考書を出版したり、大学/教授の資格を得るための研究論文をみせびらかしたりする、さもしげな若い先生たちとは違ってい/た。二人の老いた先生が教室にはいってくるだけで、特別な雰囲気が生じた。
 その一人、英語のK先生は、ダブダブの上着を着ていて、いつもポケットが一杯にふくれあがっ/ていた。何かの紙片がたくさんはいっていた。おそらく、思いついたことを紙に書いていれておく/のだろうが、服装には無頓着だったのだろう。太っていて、勢いがよくて、非常な早口で講義し/た。冗談がうまくて、それが高級だった。〝敵もさるものヒッカクもの〟を頻発する教練の先生と/は違って、K先生の冗談は豊かで味があった。戦時中の中学生にとってはヒヤッとするような男女/間のことを平気で話し、それが授業につながっていた。face to face を説明するのに「角でばっ/たり赤マント」を英訳せよ、というふうに教えた。当時、赤マントという怪物は中学生に人気があ/った。【209】


 赤マント流言が流行ったのは山口氏の入学前である。当時の麻布中学での状況は当時3年生だった、すなわち山口氏の3学年先輩の吉行淳之介が、山口氏の『酒呑みの自己弁護』そして筒井康隆の『狂気の沙汰も金次第』に続いて担当した「夕刊フジ」の「随筆一〇〇回連載」を纏めた『贋食物誌』に、2019年7月27日付(206)に見たように回想している。なお、吉行氏も誕生日からすると山口氏の2学年先輩になるはずなのだが、2019年7月25日付「吉行淳之介『贋食物誌』(2)」に見たような事情で1学年早くなっている。やはり確認が欠かせない。それはともかくとして、――吉行氏の「もしや街角でバッタリ」と云う表現にも、或いはK先生の影響がありはしないかと疑って見るのである。(以下続稿)

*1:ルビ「あだな 」。

*2:ルビ「きようきよう」。

*3:ルビ「まんじゆう」。