瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(206)

 7月22日付(205)に予告した、吉行氏が赤マント流言体験を書いたエッセイを確認して置こう。
吉行淳之介『贋食物誌』(1)
 諸版と引用の要領については7月24日付「吉行淳之介『贋食物誌』(1)」に同じ。
 ①42~43頁・②65~67頁・③73~76頁5行め「19・餅(もち)」の冒頭から抜いて置こう。①42頁上段2行め~下段20行め・②65頁2行め~66頁7行め、傍点「ヽ」は再現出来ないので仮に太字にして示した。

 昭和四十八年の終りから突然、暗い時代になってきた。
 雰囲気*1も暗いが、石油節約で街の燈も暗い。三十年前の/戦時中をおもい出す。
 しかし、どうせおもい出すなら、面白いことをおもい出/してみよう。
 太平洋戦争がはじまったころ、私たち東京の中学生のあ/いだに、突如「赤マント、あらわ\る」、|という噂*2がひろま/った。
「赤マント」というのは、大きな真黒いマント(二重まわ/し、というのだったか)を着た怪\人で、|女学生の前にいき/なり出現する。
 怪鳥が翼を大きくひろげるように、その黒いマントを開/くと、裏地は真赤な布である。そ\のマ|ントの中に、すっぽ/り女学生をかかえこみ、頰ずりする。おまけに、その怪人/【①42上】はレプラ\なのであ|る。この病気はいまでは薬で治ってしま/うが、当時はこわい病気の横綱クラスで、\鼻は崩れて穴|だ/けになってしまう。
 そういう人物に頰ずりされては、これはたまらない。刺/戟*3的なおそろしい事件で、きのう\は三|人、きょうはすでに/二人犠牲になったといい、そのうち女学生だけでなく中学/生もやら\れるとい|う噂になった。【③73】
 心のどこかではデマだろう、とおもっているのだが、中/学生のあいだで恐慌がおこるくら\い迫|真力のある話になっ/てきた。【②65】
 結局、デマだと分かったが、
「赤マントは、デマである。まどわされてはいけない」
 という訓示を、先生が全校生徒に与えた学校もあった。
 このデマは、暗い時代にふさわしいが、その時代を一層/暗くしたとは言い難い。中学生た\ちは|半ばは信じながら、/なにしろ赤マント氏は一人で活躍しているので、順番がま/わってく\ることも|あるまい、とタカをくくる。しかし、も/しや街角でバッタリ、ともおもい、刺戟を\受けへんにい|き/いきしていた。あのデマの創作者は、ある種の活気を世の/中に与えた。


 以上が前半だが、後半を読んでも当時(少々欲求不満気味の)中学生の間で行われていた噂について述べていて、餅の話には全くなっていないのである。7月24日付「吉行淳之介『贋食物誌』(1)」に引いた「あとがき」に「食物の名」と「内容」が「かけ離れている」とあったが、それでも少しは触れており、さもなければ続きの回に登場するのだが、この「餅」は前後の「18・蕎麦(そば)」と「20・フルーツ」にも出て来ない。本当に、単に時期のものとして題に据えただけのようである。
 オイルショックの狂乱物価は、私はもちろん記憶していない。母はトイレットペーパーを買いに行ったそうだ。
 さて、吉行氏は「太平洋戦争がはじまったころ、私たち東京の中学生のあいだに」としていて、7月22日付(205)に引いた、後年の和田誠との対談で「あれは最初に登場したのが昭和十六年ごろで、ぼくは中学生でしたよ」と云うのに合致する。吉行氏の麻布中学在学時期は7月25日付「吉行淳之介『贋食物誌』(2)」に引いた2種の「年譜」に見た通り、昭和11年度から14年度、そして15年度をほぼ休学して、昭和16年度に5年生に復学して卒業している。
 従って、昭和16年度の記憶は間違いがなさそうに思えるけれども「最初に登場したのが」昭和14年(1939)2月であることを各種資料で確認している上は、やはりこれも記憶違いの可能性が高いと云わざるを得ない。
 今日、内容の検討にも及ぶつもりだったが、長くなったので明日に回すことにする。(以下続稿)

*1:②③ルビ「ふんいき」。

*2:②③ルビ「うわさ」。

*3:②③ルビ「しげき」。