瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(205)

吉行淳之介『特別恐怖対談』(2)
 昨日の続きで、6節め「小鳥クリーニングと赤マント」の後半、吉行氏と和田氏の語る赤マントの件を見て置こう。
 単行本144頁2行め~145頁8行め・文庫版160頁15行め~163頁6行め・文芸文庫55頁8行め~56頁(15行め)。

和田 赤マントっていうのもいましたね。【文庫161】
吉行 いましたねえ。しかし、あれは最初に登場したのが昭和十六年ごろで、ぼくは中学\生|でし/たよ。
和田 十六年だとぼくは五つか。小学生の時に怖かったんだから、わりと長い年月にわた\っ|て出/没していたんじゃないですか。少なくとも三年は。
吉行 あるいは、第一次赤マント、第二次……とか。われわれのころの赤マントは、黒い\マ|ント/をパッと開けると裏が全部赤くて、それにすっぽり抱えこまれて頰*1ずりされる。そ\の男|は、梅毒/の末期かなにかで、鼻が取れて穴だけになってる(笑)とかいうのだった。
和田 ぼくらの時は、単に人さらいみたいなものでしたね。マントも単純な赤いマント\で。|実は/ぼくらの小学校に出ましてね、その赤マントが。便所に潜んでいるって。【文芸文庫55】
吉行 いたんですか、ほんとに。
和田 どうしても戸が開かない便所がありまして。みんなで開けに行くんですが、どうし\た|加滅/かで鍵*2が中からしまっちゃったんでしょうね、開かないんです。戸の隙間*3から覗*4く\と赤|い長靴が/見えるというので、またみんなで見に行く。
吉行 それでどうでした。
和田 気のせいか赤い長靴が見える。小学校の一年の時でしたね。
吉行 アカないということとアカマントがかかっている。
和田 これも小田島さんみたいですね(笑)
吉行 うつるんだよ、あの駄ジャレは。しかし赤マントは東京じゅうかなり浸透しました\ね。【単行本144・文庫162】
和田 まだそのころ大阪でしたから、ぼく/は。
吉行 大阪にも出ましたか。
和田 ああいうのって不思議で、わりと全/国股*5|にかけているところがあるでしょう。/いま\みた|いに週刊誌もない時代に、ラジオ/が放送するわ|けでもないのに、というとこ/ろが面白\いですね。【文芸文庫56】


 「小田島さんみたい」と云うのは『恐・恐・恐怖対談』の9篇め、単行本181~204頁「小田島雄志―「イロハニオヘソ篇」」で、末尾(204頁2行め)に「(昭和五十六年五月二十八日 銀座・資生堂パーラーロオジエ〉で) 」とあって3年以上経っている。3年経っても吉行氏・和田氏ともに影響が残っていたようだ。
 さて、「子とり」から「赤マント」と云う流れは昨日も言及した黒田清『そやけど大阪』に同じ。
 吉行氏が赤マント流言の時期を昭和16年(1941)としていることについては、この対談よりも前の、吉行氏の赤マントを取り上げたエッセイについて検討する際に考証することとする。ここでは和田誠(1936.4.10生)赤マント体験について確認して置こう。
 和田氏は大阪で赤マント流言が広まった昭和14年(1939)夏には満3歳だから、当然その記憶はないわけで、これは2018年5月10日付(159)に時期のズレる例について示した見当の②後の名残に当たる訳である。和田氏の小学校入学は昭和18年(1943)4月、大阪生れで、大阪で小学校に入学したことは『似顔絵物語』や『和田誠切抜帖』などにも述べてあったが、入学した小学校が分からない。そこで次の本を某区立図書館で予約して借りて見た。
・『定本 和田誠 時間旅行』2018年9月1日発行・玄光社・287頁・AB判並製本

定本 和田誠 時間旅行

定本 和田誠 時間旅行

 280頁下段~284頁「年譜」、まづその生誕については280頁下段(3段組)の「1936」年条に、3~5行め、

大阪市東住吉区に父・和田精、母・文の次男として誕生(4/月10日)、4歳上に兄・峻がいた。両親は東京人だが、父親が/日本放送協会大阪中央放送局に赴任したため。

とある。小学校入学は「1943」年条に、14~17行め、

大阪市住吉区長池国民学校入学。
戦時中のため体育の授業は厳しかったが運動はまるで苦手/だった。図工の中でも工作はあまり得意ではなく、絵もうま/い人にはかなわなかった。

とある。長池国民学校は現在の大阪市長池小学校で、大阪市阿倍野区長池町20-26に所在し、和田氏在学当時も大阪市阿倍野*6だったはずである。和田氏は旧住吉郡田邊町の、大阪市併合後に東住吉区になった区域に住んで、その外れの阿倍野区の区域に田辺小学校から分かれて開校した長池小学校に通っていたようだ。
 大阪の赤マント流言についても、追って他の人の証言と照合して見るつもりだが、やはり便所との関連が注意される。内容が単純であることは、中学生の吉行氏と小学1年生の和田氏の年齢差も、或いは影響しているかも知れない。大阪の流言が全体に単純になっていたのかも知れないが。
 そして「1945」年条、19~24行め、

日本放送協会大阪中央放送局のラジオのディレクターで/あった父親が職場を解雇され(戦意高揚ドラマに意見を/言ったのが原因らしい)、東京、世田谷の実家に移る。
空襲が激しくすぐに千葉県印旛郡の親戚の家へ疎開。白井/国民学校に転入。終戦を迎える。
小学3年生の3学期より世田谷の代沢小学校に転入。

と、大阪在住期間はほぼ小学校低学年に限定されるようである。(以下続稿)

*1:文庫版ルビ「ほお」。

*2:文庫版ルビ「かぎ」。

*3:文庫版ルビ「すきま」。

*4:ルビ「のぞ」。

*5:文庫版ルビ「また」。

*6:西田邊町か。