瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

竹中労の前半生(07)

 竹中労の生年、また前半生を辿るには父親の竹中英太郎の伝記を明らかにする必要がある。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションが刷新されたことで、従来気付かれていなかった資料に容易に逢着し得るようになった。
・昭和七年版『現代日本名士録』昭和七年七月十二日印刷納本・昭和七年七月十五日發  行・定價金拾參圓五拾錢・よろづ案内社・一六+五一二頁
 發行所のよろづ案内社は東京府荏原郡世田ヶ谷町大字太子堂四六六番地、發行者は同じ番地の板尾金松、著作者の松生晴四郎には住所の記載がない。
 扉、「序」は「昭和七年七月」付で「編者識」とある。続いて「目次」が一六頁、その一頁の冒頭、4段組の上2段抜きで「大 東 京 年 誌 附 録人 物 篇 目 次」とある。
 四九〇頁下段(3段組)14行めにやや大きく「竹中英太郞氏 中野町西町一五」とあって1行弱空けて、15行め~四九一頁上段7行め、

挿畫家
明治三九年一二月生、福岡縣
 挿畫界の新進として異彩を放ち、大い/に其前途を囑望されてゐる氏は福岡縣の/出身である。幼少の頃より繪畫に趣味深/く、遂に畫家として起つべく靑雲の志を/抱いて東上した。爾來主として挿畫を研/究し、獨學を以て研鑽に勵む傍ら各新聞/雜誌に寄稿し、昭和二年頃より漸次斯界/に認められるに至つた。然れども研究熱/燃ゆるが如き氏は、小成に康んずること/なく絕えず研鑽努力に沒頭し、その豐富/【四九〇】なる天分は年と共に發揮され、斯界の鬼/才として普く名聲を博してゐる。昭和七/年三月スケツチ旅行の途に上り、新滿洲/國、朝鮮等を歷遊し新聞雜誌界を視察し/て同六月歸朝し、現今斯界に一新機軸を/出すべく熱心に研究中である。
 妻八重子、長男勞


 竹中英太郎が渡満していることは知られているが、その(恐らく第1回めの)時期が昭和7年(1932)の滿洲國建国直後であったことが、これにより初めて明らかになったものと思う。まぁ苦労して見付けた訳ではないが。
 なお「目次」に見える『大東京年誌』は、昭和7年(1932)の大東京発足を記念して刊行された年鑑である。
・社会教育研究所 編纂『大東京年誌』(口絵+一四+六五+一二六〇+八六+一二八頁)
 この冊には奥付がない。製本の都合で奥付がなくなった訳ではないことは「目次」六五頁に本冊の範囲が全てカバーされていることから明らかである。
・『大東京年誌附録人物編』昭和七年四月二十八日納本・昭和七年五月一日發行・定價金參拾五圓・社会教育研究所・一六+四三二頁
 この「附録」に奥付がある。目次の題は『現代日本名士録』と同じだが、しかしこれには「竹中英太郎氏」は出ていない。どうも『大東京年誌附録/人物編』の紙型を譲り受け、若干の増補を行って刊行したのが『現代日本名士録』らしく、その増補部分、どのような関係から竹中英太郎を載せることにしたのか、とにかく最新の情報による増補である。ただ惜しむらくは、他の人物の場合、最後に添えた家族に生年もしくは年齢、中には実家のことなど記載があるのが、それがないので八重子と労の年齢を明らかに出来ないことである。
・春日俊吉「黑い猫の赤い罐」
 「山小屋」第五十號(昭和十一年二月二十四日印刷納本・昭和十一年三月 一 日發   行・金三十錢・朋文堂・257頁100頁)の、2~35頁「山とパイプ」特輯として諸家の文章を並べたうち、27頁中・下段7行め~30頁上・中段5行めに掲載されている。のち、春日俊吉『山岳漫歩』(昭和十二年十二月十九日印刷納本・昭和十二年十二月廿五日發  行・定 價 八 十 錢・朋文堂・257頁)の巻末近く、226~252頁「放心亭雜稾」と題して登山・山岳が主題となっていないような随筆を7篇収録しているが、その最後に、248~252頁「黑い猫の赤い罐」として収録されている。
 春日俊吉(1897~1975.7.7)は文藝家協會 編纂『文藝年鑑』一九三七年版(昭和十二年四月十五日印刷・昭和十二年四月二十日發行・定價一圓八十錢・第一書房・365頁)267~364頁「第三部 文筆家總覽」290~294頁「」291頁3段め(4段組)8行めに「春 日 俊 吉  麴町區中六番町四三」とあって9~11行め、1字下げで「本名伊藤純一、明三〇生、東京、大一〇早/大、スポーツ隨筆等、元讀賣記者、「山岳/漫歩」「登山遭難史」等。」と、本書を挙げて紹介している。
 初出誌28頁下段9~21行め(改行位置「/」)、単行本251頁4~9行め(改行位置「|」)、愛用のパイプについて述べた中に、

 Daiana *1といふ名のダンヒルは、僕の最/も秘藏した一本であつたが、去年の春「新/靑年」*2|などで例の異色ある、凄い挿繪を書/いてゐる竹中英太郞と、一夜その黃色い液/體を用ひす|ぎた席上で、少々ばかり酒亂の/氣味を有する彼に、なんと思つたか、スパ/スパやつてゐて|いきなり、「エエイ!」こん/な物*3といふより早く、ポキリとヘシ折られ/てしまつた。その|あくる日彼は、素晴らし/いアネモネを一鉢持つて詑びにきた。その/アネモネは今だに、僕|の貧しい植木棚に生/きてゐる。だが、花では吸ふわけにいかな/い。

とある。「黄色い液体」はもちろんビール。単行本は末尾(252頁10行め)に下寄せでやや小さく「――一、九三六、九――  」とあるが初出誌の二三九頁上段までである。しかし初出誌は「三月號」なのでここに「九」月としているのが少々謎だが、とにかくこの「去年」とは昭和10年(1935)である。この頃のこともどうもはっきりしないので、当時の交遊や竹中英太郎の人物像についての、1つの資料にはなるだろう。(以下続稿)

*1:単行本「Deiana 」。

*2:単行本鉤括弧閉じ半角。

*3:単行本は全角の鉤括弧で「エエイ!こんな物」を括る。