瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(358)

 昨日の続き。
・「大日」第二百三十四號(昭和十五年 十 月廿八日 印刷納本・昭和十五年十一月 一 日 發  行・定 價 金 參 拾 錢・八二頁)
 七五~七六頁*1水島爾保布「巢鴨より」は全体が流言を扱ったものとなっている。冒頭から中段13行めまで抜いて置こう。

 五六年前、眞白な頤鬚を埀らした爺さんが/笊で酒を買ひに來たといふ巷説が、全國各地/に傳へられたことがあつた。その後、事變一/寸前には赤いマントを着た、セムシの男が宵/闇に乘じて、子供や若い女の子の生血を取り/に來るといふ奇怪な流言が唱へ出された。千/住の某所で桶屋の女の子が肩から血を吸ひ取/られて死んだとか、芝のお靈屋の裏で女按摩/が襲はれたとか、何處やらの八幡樣で子守が/背中の子を取られたとか、何やらの映畫館で/活動見物中、抱いてゐる子供を持つて行かれ/たかみさんがあつたとかいふ口々の噂ばなし/が、新舊市區のあちこちを脅かしの種を蒔い/て廻つたものだ。その爲め警視廳は事實無根/の浮説だといふ布告迄出したしラヂオは二晩/もつゞけて「全く根も葉もない流言でありま/すから……」安心せよと繰り返へして放送し/たさうだし、私達の町内では、同樣の意味をガ/リ版印刷にして辻〻に掲示したものである。
 その當時の國の情勢と對比して、何だか「赤/【上】いマントのセムシ男」といふのも、何やら暗/示めいても聞えたし、更にそいつが「女子供/の生血を吸ふ」といふのだから、愈〻暗示的/怪奇傳説の態を備へてゐる。……などと、思/ひもしたし同時に流言意識とてもいつたやう/なものに就いても、一寸考へて見たいやうな/氣もしたが、勿論氣がした丈に過ぎない。そ/の「赤マント」が人の口の端から消滅すると/ひとしく、そんな尤もらしい思惑も忽に忘却/して了つた。
 するといくばくもなく事變勃發だ。祝出征/の大旗小旗が市の巷のあちこちに初秋の風に/翩翻する折から、‥‥


 「五六年前」の「笊で酒」の巷説は、丁度4年前の「大日」第百三十八號(昭和十一年十月廿八日 印刷納本・昭和十一年十一月一日 發  行・定 價 金 參 拾 錢・八二頁)七五~七六頁「巢鴨より」で取り上げられていた。これは末尾に(十月廿六日)とある。――どうも、過去のことは実際以上に古いことのように感じられてしまうようだ。むしろこの「笊で酒」の巷説こそが昭和12年(1937)7月に勃発する「事変一寸前」だったのであり、赤マント流言は昭和14年(1939)2月下旬だから事変勃発の1年半後、水島氏は3年半くらい前に感じていたようだが実際には1年8ヶ月しか経っていない。
 こうした感覚を知ることも興味深いのだけれども、一方で「一寸考へて見たいやうな気もした」ときに直ちに「巢鴨より」で取り上げてくれていたら、とも思うのである。月2回刊行の雑誌「大日」の連載だから、かなり生々しい形での、事態の観察と解釈を聞くことが出来たはずである。
 しかし、時間を置いて整理して述べているので非常に明快である。具体的な被害者の状況――実際には全く具体的でない――を列挙しているところも面白い。
 注意されるのは「ラヂオは二晩もつゞけて」の件で、書き方からして水島氏は実際の放送を聞いていなかったようだが、2021年4月17日付(324)に見た「東京朝日新聞昭和14年2月23日付「青鉛筆」欄の、22日19時に放送、と云うのを2021年4月18日付(325)にて「東京のラジオ放送の日時と内容」と題して、より詳細な報道をしていた「都新聞」等他紙誌が23日19時としていたことを根拠に否定したのだけれども、水島氏の云う通りだとすれば22日・23日と2日続けて同内容の放送を行ったことになる。
 しかし2日続けてと云うのは1年8ヶ月が経過した「巢鴨より」のみであってみれば、やはり「都新聞」の23日放送の信憑性が高いことは揺るがない。ただ22日放送の可能性についてあっさり否定し去って良いとは思えなくなっているのである。
 町内に掲示があったと云うのは岩佐東一郎「赤いマント」に、2013年11月4日付(014)に引用したが、四谷の本村町*2の横町で見た町会掲示板の掲示書の内容を書き留めてあった。
 さて、水島氏の当時の住所だが、作品社編輯部 編、作品文庫『昭和十四年版 文藝豆年鑑』(昭和十三年十二月二十六日印刷・昭和十三年十二月 三 十 日發行・定價金六拾五錢・作品社・一四六頁)一三五頁上段4行めに「水島爾保布 小石川區宮下町四四」とあり、國民藝術研究所 編纂『昭和十四年年鑑 美術綜覧 昭和十五年版(昭和十五年十月 廿 日印刷・昭和十五年十一月 一 日發行・定價金二  圓・藝苑社・228頁)137頁中段3~4行めに、

 水島爾保布 明一七年東京生 東美校卒 帝/展出品 小石川區宮下町四四*3

とある。現在の文京区千石4丁目29番の北西側、小石川区で最も巣鴨駅に近い一郭である。
 ところが毎日年鑑別册「日本人名選」昭和十五年版(昭和十四年九月廿五日印刷・昭和十四年十月 五日發行・大阪毎日新聞社・四一六頁)二九七頁2段め1~2行めには、

水島爾保布 明17、東京、東京美校/ 漫畫家、東京豐島區堀之内町三三

とある。漢数字は半角だが確かに「三」が2つである。しかるに美術研究所『日本美術年鑑 昭和十四年版(昭和十五年三月二十五日印刷・昭和十五年三月 三 十 日發行・定 價  六  圓・美術研究所・二五一+挿圖一〇八+附録一一五頁)(以下続稿)の「附録」六三~一一五頁「美術家及美術關係者名簿」一〇七頁2段め6~8行め、

 水 島 爾 保 布(日、漫) 明治一七年東京生、同四一年東美校卒、舊帝展出品、豐島區堀之内町一二三

とある。日は日本畫。要するに「三三」と「一二三」と、横棒が6つの数字を何処で切るのか迷ったための混乱で、豊島区堀之内町については2017年2月11日付「小池壮彦『怪談 FINAL EDITION』(19)」に確認したことがある。33番地は現在の豊島区上池袋2丁目17番、123番地は現在の豊島区上池袋2丁目40番辺りらしい。最寄駅は池袋で、巣鴨ではない。
 堀之内町に移転したのを知らずに古い住所を載せたのかも知れないし、一時的に移転しただけかも知れないし、この辺り、前後の同種の年鑑類、そして「巢鴨より」にも記述がないか、確認する必要があるのだけれども、追々補足して行くこととしよう。(以下続稿)

*1:七六頁の中段・下段の左半分強は囲みで井上清純氏述「日本人の流れ」より「八紘一宇」。

*2:現在の新宿区本塩町の北部、四谷区の北東端。

*3:ルビ「ニホフ」。