瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

竹中労の前半生(10)

竹中英太郎の軍関係の人脈②
 昨日及び一昨日の続き。
 1月8日付「赤いマント(334)」に引いた「官報」の「株式會社立會鐵工所」設立の記事に見える人物のうち、同居している竹中健助は兄である。竹中英太郎の兄弟については、竹中英太郎の伝記及び竹中労の親類について回想について検討する際に述べることにする。
 当初代表取締役を務めていた峰整造(1895.1生)は、現在は殆ど忘れられた存在になっているが、当時は南洋進出を推進する論客として知られた人物であったようだ。よって多くの文献にその名が見えるがここでは立会鉄工所設立に近い時期に刊行された『第十二版人事興信録』(昭和十四年十月十五日印刷・昭和十四年十月二十日發行・上下二卷定價金五拾圓・人事興信所)下卷、ミ七五頁1段め(4段組)15~29行め、まづ15~18行め、肩書きを「南方產業㈱南産化學工業㈱各社長、/南洋電氣㈱監査役、南方經濟調査會/海洋國策研究會、國策文化映畫協會/各會長、東京府在籍」と列挙した上にやや大きく「峰  整 造」とある。19~29行めはそのまま抜いて置こう。

 妻  フ ヂ 明三三、四生、東京、清水實妹
 女  千惠子 昭四、一〇生
大分縣峰肇の弟にして明治二十八年一月出生昭和四/年分れて一家を創立す夙に早稲田大學政治經濟科に/學び大正十五年月刊雜誌「政治經濟時論」を昭和七/年「保險春秋」を同八年「金融往來」を創刊し各其/主筆兼社長たりしが昭和十二年南方產業株式會社を/創立するに當り右三誌の刊行を中止す現時南方產業/株式會社の取締役社長たるの外前記諸會社の重役た/り[趣味]スポーツ音樂[宗教]禪宗(東京市赤坂區青山北/町四ノ九六[]青山六八八九)


 歿年はまだ明らかにしていない。『大分年鑑』昭和二十七年版(昭和二十七年四月一日印刷・和二十七年四月三日発行・定価300圓・大分合同新聞社・320頁)に、266~320頁中段9行め「名簿篇」の293~309頁上段19行め「在京大分縣人會/(カツコ内は出身地)」にずらずら列挙される中に、306頁下段9行め~307頁中段17行め「み ノ 部」307頁中段1~2行め「‥‥)峰整造横浜/重工業株式会社取締役社長(臼杵市)‥‥」と見えている。臼杵市出身であることが分かる。
 匝瑳胤次(1878.1.7~1960.4.14)は第三回旅順港閉塞作戦に参加した海軍軍人で海軍少将で予備役、ロンドン海軍軍縮条約反対の論陣を張り、東京市会議員・東京都会議員を務め、戦後は公職追放されている。
 そうすると、竹中英太郎は昨日見た陸軍関係の「五日会」だけではなく、海軍の軍人とも繋がりがあったことになりそうであるが、どのようにして関係が生じたのか、それは今後の課題である。
・航空局 監修『昭和十四年 航空年鑑』昭和十五年 二 月 五 日印刷・昭和十五年 二 月 十 日發行・頒價 金參圓五拾錢・帝國飛行協會・五五九頁
 四七八~四八一頁「民間飛行學校・同練習所其他」は見出しの下に(昭和十四年/十 月 現 在)とある。見出しは4段抜き、本文は4段組、四七八頁4段め5行め、2行取り3字下げでやや大きく「小栗航空研究所」とあり、以下四七九頁1段め15行めまで、

事 務 所 東京市日本橋區本町三の/ 五成毛ビル
機械部工場 東京市品川區大井北濱/ 川一一二二
出 張 所 神戶市兵庫區上澤通リ二/ の四ノ七
飛 行 場 東京市深川區第七號埋立/ 地
所  長       小栗常太郎
顧  問  陸軍中將 井上 一次
      辯護士 澤田鯉二郎
相 談 役       岩間 靜雄
          立石 晃史【四七八】
航空部長 一等操縦士 猿田 秀文
部  員 二等操縦士 本田  成
機械部長       立石 晃史
部  員       山本金次郎
          永田  稠
鑄 造 部       伊藤德三郎
工 場 長       竹中英太郎
同支配人       柴田 直二
飛 行 機 アンリオ式二八型、サル/ ムソン二A二型、一〇式各一臺合/ 計三臺
事 業 飛行機操縱士養成、宣傳、/ 航空寫眞撮影,其他一般航空に關/ する研究並事業及一般航空、自動/ 車用機械及工具類の製作と販賣


 国立国会図書館デジタルコレクションで検索してこれがヒットしたのはもちろん「工場長」として「竹中英太郎」の名が見えるからであるが、昭和14年(1939)10月現在であれば既に立会鉄工所の設立後のはずである。しかもその「機械部工場」の住所は、立会鉄工所と同じなのである。
 そうすると、これは、立会鉄工所設立前の状況がそのまま記載されてしまった可能性が高くなるのではないか。前年の『航空年鑑』の(昭和十三年/九 月 現 在)の「小栗航空研究所」の項は簡略で「機械部工場」の記載はない。存在しなかったのか、それとも記載しなかったのか、どちらか分からない。
 しかし、何をしていたのかはっきりしない、竹中労によると強制送還に近い形で満洲から帰国したと云う状況から、幾ら後で検討するように嘗て鉄工所で仕事をした経験があるとは云え、どうして急に町の鉄工所の経営者に転身することが出来たのだか、不思議に思っていたのだが、――まづ何らかの人脈を活用して、小栗航空研究所機械部に工場長として入り、そして資金を調達して工場を買い取って(買い取ってもらい)独立した、と云う筋が、現実的にありそうな気がするのである。(以下続稿)