瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(08)

神宮教院本教館と古典講習科
「犬山壮年會雜誌」に「古典講科」とあったのに引っ掛かってしまい滞っていたのだが「古典講科」ならば幾らも論文がある。登場する人名も、全く知らない人ではない。ただ、私の専門の先行研究は、江戸時代後期の考証家の次が大正以降に飛んでしまう。幕末から明治初年生れの学者の業績は、一応見たけれども本文校訂は余り厳密でないので新しい翻刻・複製があればそれを見ることになる。だから名前は見ていても余りその業績や経歴に注意を払って来なかった。「古典講習科」の文字も目にしていたはずなのだが、これまで全く注意して来なかった。錚々たる学者の論文が幾つもあるので素人の私は怱々に切り上げることとしたい。
 神宮教院については三重県総合教育センター 編集三重県教育史』第一巻(一九八〇年三月二〇日 印刷・一九八〇年三月三〇日 発行・三重県教育委員会・口絵+25+1235頁)303~684頁「第三章 近代教育の創始」539~626頁「第三節 創設期の中学校」608頁4行め~616頁3行め「五、神宮教校と貫練教校」の前半、608頁5行め~609頁3行め「神宮教院/の 誕 生」609頁4行め~610頁4行め「神宮教院/の 教 育」610頁5行め~611頁6行め「神宮教院本/教館の設置」611頁7行め~612頁9行め「本教館の/閉  鎖」に扱われている。明治6年(1873)1月10日、宇治浦田町に神宮教院開設、明治9年(1876)10月「神宮教院規則」改正により神宮教院本教館が設置され、北は仙台から肥後・薩摩からも生徒を集めたが、生徒間の対立抗争の激化に伴い明治14年(1881)12月9日の閉寮布達を以て神宮教院本教館は閉鎖されている。
 その続きが685~1098頁「第四章 近代教育の形成」834~918頁「第三節 中等普通教育及び専門教育の整備」908頁4行め~918頁「四、神宮皇学館と真宗勧学院」の前半、908頁5行め~909頁11行め「本教館再興と/しての皇学館」909頁12~21行め「専門学校/への動き」910~911頁7行め「学科編成/の 変 遷」911頁8~18行め「教科内容/の 変 遷」911頁19行め~913頁2行め「神宮皇学館/官制の公布」である。
 なお、前付8頁「第一巻 執 筆 分 担 一 覧 (執筆順)」を見るに15人中13人め「阪 本 忠 一  第三章三節五・六、第四章三節四」とあって、神宮教院本教館と神宮皇学館については阪本忠一が担当している。阪本氏は平成6年(1994)4月から平成9年(1997)3月まで三重県立飯野高等学校の第8代校長、平成10年(1998)4月から平成11年(1999)3月まで三重県立松阪高等学校校長、平成13年(2001)4月には県教育委員会審議監から三重県立稲葉特別支援学校の10代目校長となり平成16年(2004)3月まで勤めて退職したらしい。
 さて、第四章に戻って、閉鎖された神宮教院本教館だが、半年を経ずに林崎文庫に皇学館として再興する運動が明治15年(1882)4月30日の神宮祭主久邇宮朝彦親王の布達以来なされて、明治16年(1883)4月28日には林崎文庫講堂にて皇学館開館式まで挙行していたが中々進展せず、生徒の募集を開始したのは明治18年(1885)1月であった。
 そうすると明治16年(1883)に赤堀氏が「久居」にいたのは、神宮教院本教館閉鎖の後、いづれ再興されるであろうことを見越して、帰郷せずすぐに復帰出来るようしばらく学友の家にでも身を寄せていたのではないか。しかし閉鎖から1年半経って皇学館開館式が挙行されたものの生徒の募集も始まらない。そうこうするうち、神宮教院本教館時代の先輩から、明治17年(1884)の古典講習科国書課第二期生の募集に応ずるよう勧められて、神宮教院(皇学館)再興に見切りを付けて上京したのではないか。
 古典講習科には神宮教院本教館が閉鎖される少し前に上京していた落合直文と、本教館閉鎖後に上京した池辺義象・青戸波江・橋本光秋が第一期生として入学していた。但し落合氏は明治17年に入営して退学しているので、赤堀氏が入学したときには不在であった。青戸氏も中途退学して池辺氏と橋本氏の2人が卒業している。
 しかし「犬山壮年會雜誌」第三號(明治21年12月)の赤堀氏の宿所が「落合直文方」となっていることからも、神宮教院本教館から古典講習科へ進むについて、落合氏から何らかの示唆、或いは慫慂があったらしく思われるのである。
 なお、落合直文(1861.十一.二十二~1903.12.9)については矢吹弘史『落合直文』(昭和十八年 六 月 五 日 印 刷・昭和十八年 六 月 十 日 發 行・定價 貳圓八拾錢・同文館出版部・口絵+八+目次+317頁)157~232頁「小傳篇」を参照した。168頁6行め~182頁2行め「 五十鈴川の清流」には神宮教院の学級規定や教育内容、当時の回想なども紹介されていて、中々参考になる。そして上京、192頁11行め~195頁1行め「 古典に憧る」が「大学古典科」入学を扱っている。(以下続稿)