・『書物通の書物随筆』第一巻『赤堀又次郎『読史随筆』』(3)
昨日の続きで、しばらく佐藤哲彦「解題」の「赤堀又次郎について」の出典(及び直接の依拠資料)について確認することとしたい。昨日列挙したブログ記事については【①空山】の如く、記事公開日順に打った番号にHNを添えて示した。但し「higonosuke」と「神保町のオタ」は少々長いので前者は「higo」後者は「神保町」と略した。
まづ石井敦 編著『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)』の「赤堀又次郎」項を文章化して引いて、その人生の概略を提示するのだが、これは【⑧神保町】の示唆による【⑨書物蔵】の引用に拠っている。
次いで出自について述べる。ⅰ頁9~10行め、
赤堀が名古屋藩士の家に生れたらしいことは、伊藤正雄『忘れ得ぬ国文学者たち』(右文書院)の山田孝雄*1の回想か/ら窺える。それによると、‥‥
として、ⅱ頁4行めまで、註釈や感想を交えつつ、その(四〇頁)から引用している。
これは【③森洋介】により参照したものであろう。「‥‥。赤堀について、伊藤正雄『忘れ得ぬ国文学者たち』に見えるエピソードが印象的で、忘れられません。足立巻一『やちまた 下』第二十章にも引用があります。」
なお、3月28日付(07)に引いた村嶋英治の引用は、原典(新版)に遡ってその冒頭の一文を抜き出したものである。このとき私は『忘れ得ぬ国文学者たち』の初版を持っていると書いてしまったのだが、私が持っているのは「後篇」が『忘れ得ぬ国文学者たち』の原型となったと思しき伊藤正雄『近世日本文学管見』で、山田孝雄の談話は載っていない。『忘れ得ぬ国文学者たち』は出身大学の図書館に初版があるから、卒業生の利用が再開されたら、都下の公立図書館に所蔵されている新版を取り寄せて、手許の『近世日本文学管見』と対照させながら色々確認することとしよう。
今は仮に、足立巻一『やちまた』から抜いて置こう。
・新装版『やちまた』下巻(平成2年11月1日初版印刷 平成2年11月10日初版発行・定価2718円・河出書房新社・452頁・四六判上製本)
新装版386頁1~2行め(朝日文芸文庫版402頁14~15行め)、直前1行分空けて、
その時分、拝藤教授が『忘れ得ぬ国文学者たち』という本を出されたことも、わたしの感慨を|そそ/った。
この拝藤教授が足立巻一(1913.6.29~1985.8.14)の神宮皇学館時代の恩師・伊藤正雄(1902.5.17~1978.7.20)である。そして巻頭歌を引き、はしがきから執筆意図を紹介、そして回想される学者の名を列挙する。
新装版13行め~387頁3行め(403頁8~17行め)、
なかで、わたしにもっとも興味のあったのは、山田孝雄博士からの聞き書きによる「上田万年|先生/遺聞」と題する一章であった。
わたしの出た専門学校は戦時中に官立大学に昇格し、山田博士が学長となって来任したが、昭|和十/六年二月の放課後、博士は拝藤教授と白江教授とをストーブのそばに呼んで、「君たちは上|田さんの/お弟子だから、自分の観た上田さんのことを話してあげよう」と切り出したというので|ある。
上田博士がなくなったのは昭和十二年十月で、その没後、雑誌『国語と国文学』も『国漢』も|分厚/【386】い追悼号を出したけれど、山田博士の話というのはいままでまったく知られなかったことば|かりだっ/たので、拝藤教授はそのあとすぐに聞き書きを作っておいた。「遺聞」はその聞き書き|を注で補いな/がら、そのままはじめて発表されたものだった。
そして、周囲の国語学者には、恩師にズケズケと物を言ったり上田氏の講義を自著として出してしまったりするような、困った人物がいたとて、亀田次郎(1876.9.11~1944.2.8)、赤堀又次郎、そして保科孝一(1872.九.二十~1955.7.2)と宮田脩(1874.10.3~1937.3.19)の振舞について語ったところを抜いている。
ここでは赤堀氏について語った箇所を、その前後も含めて抜いて置こう。新装版387頁18行め~388頁8行め(朝日文芸文庫版404頁13行め~405頁3行め)、太字にしたのは佐藤氏が「赤堀又次郎について」で原文のまま引用している箇所。促音を小さくしていない以外の異同は「佐藤氏」として註記した(佐藤氏の方がが正確に写しているかも知れぬが)。
最初の『国語学書目解題』や『日本文学者年表』の編者である赤堀又次郎もずいぶん変わった|学者/だったという。【387】
「赤堀又次郎といふ人も気むづかしい人だ。上田さんの家に居候になりながら、自分の家が上田|家の/主人筋に当るといふことで、少しも遠慮せず、『こんなまづい味噌汁が食へるか』といふや|うなこと/を*2言ふので、奥さんが手を焼いたらしい。上田さんの下で『国語学書目解題』編纂の助|手をしてゐた/が、上田さんは国語研究室の名で出すつもりだったのを、赤堀君は自分がもっぱら|骨を折ったものだ/からと、到頭頑張って自分の名前で出版してしまった。そのために上田さんの|【404】不興を買って、絶交状/態になった。先生のお葬式にも顔を出さなかったらしい」
亀田次郎といい、赤堀又次郎といい、容赦がなくて我意の強い人だったらしい。人間としては|ずい/ぶんつきあいにくかっただろう。上田博士の国語学教室にはそんな人が多かったらしい。
佐藤氏は「手を焼いたらしい」で一旦切って、括弧で小さくⅰ頁11~12行め「‥‥」。(なお、『尾藩分限帳 明治二年訂正』によれば、上田万年の父虎之丞は、当時大番士(五十六俵)で、大番組与/頭に「赤堀惣五郎(百五十石)」、徒頭に「赤堀次郎兵衛(三百石)」の名がある。)また、‥‥」と註記する。続く部分は『國語學書目解題』刊行の経緯と合せて確認する必要があるので、次回に回すこととしよう。
赤堀氏が上田家に居候していたことについては、3月26日付(05)に見た、明治27年(1894)11月23日発行の「犬山壮年會雜誌」第十二輯の「廣告」欄に「本郷區西片町十番地はノ二十號上田方」に赤堀氏が「轉居」したことを告知しており、明治27年9月30日の第十一輯発行の頃から後に、転居したのであろう。
▽明治二十三年(一八九〇) 二十四歳
九月、文科大学授業嘱託を解任、博言學修業のため三年間ドイツ留學を命ぜらる。
五月、『國文學(卷之一)』を雙々館より刊行。
▽明治二十七年(一八九四) 二十八歳
六月、歸朝。七月、帝國大学教授(高等官六等)に任ぜられ、博言學講座擔任を/命ぜらる。
▽明治二十八年(一八九五) 二十九歳
十二月、村上楯朝女つる子と結婚。
六月、『國語のため』を冨山房より刊行。
とあるから「奥さん」とすると赤堀氏は1年以上帝国大学教授の家に居候し続け、かつ教授が新妻を迎えても居座り続けたことになる。流石にそれまでには退去しそうなものだ。
いや、佐藤氏が『尾藩分限帳』に見出した「赤堀惣五郎」や「赤堀次郎兵衛」は、どちらかが4月12日付(22)に見た赤堀秀時なのだろう。赤堀氏は犬山の針綱神社神職を世襲して来た赤堀家の出なので「主人筋」の「名古屋藩士」と云うのは事実誤認である。ただ、4月13日付(23)にも引いたように赤堀氏の父・赤堀象万侶は、名古屋の赤堀家と犬山の赤堀家は共通の祖先だと思っていたようなので、或いは赤堀氏にもそのような家格についての意識があったのかも知れない。
しかし、仮にそうだとして、誰がこんな話を聞き付けたのだろう。地位ある上田氏が言いふらしたのだとしたら、少々大人げない。いや、山田氏の話は「らしい」「らしい」と繰り返していて、所詮は伝聞に憶測なのである。――この山田孝雄と云う人も、ネットで検索するとまづヒットする Wikipedia「山田孝雄」項にしてからが、生年月日を(1873年(明治6年)5月10日(実際には1875年(明治8年)8月20日)としていて、赤堀又次郎について調べる前に追究していた(そして再開したいと思っている)竹中労の生年月日みたいな按配になっているのだけれども、草臥れるのでこれにはしばらく突っ込まずに置こう。ネットに公開されている人名辞書類でもこの両説に分かれていて、しかしどうして両説あるのかが俄に分からない。しかし、どうやら赤堀氏が上田氏の家に居候していた頃に東京にいた訳ではないらしいから、その当時に聞いた訳でもないのである。誰からか分からぬが随分経ってから聞いたのだろう。だから、全くの妄誕ではないとしても、そもそもが「赤堀氏ほどの人物が社会的に報われなかったのは何か理由があるに違いない」との気分が生み出し、それを上田氏との不仲に求めた、一種の都市伝説と見做すべきものなのではないのか。――強く主張しようとは思わないが、私はその筋でも考えてみたいと思っているのである。(以下続稿)