瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(16)

・赤堀象万侶①『犬山里語記』著者自筆本所蔵者
 私は赤堀秀雅を、赤堀又次郎の一人息子と前提して組み立てて来た。その理由はまづ、①同姓で住所が同じこと。②慶應二年(1866)生と明治32年(1899)生の年齢差が如何にも親子らしく思われること。ちなみに赤堀氏は大正初年に市谷加賀町二丁目に転居しているが、市谷加賀町一丁目の府立第四中に赤堀秀雅が入学した頃に転居したらしい。③反町茂雄『一古書肆の思い出』に老夫人しか登場しないこと、これは独身で、終戦前後満洲に在ったことと合うようである。
 しかし、確証は得ていない。けれども間違いないだろうと思ったのにはもう1つ理由がある。
・日比野晃「『犬山里語記』の諸本について」中日本自動車短期大学論叢委員会 編集「論叢」第30号・2000年3月10日発行・中日本自動車短期大学・63+31頁)
 『犬山里語記』は江戸時代後期、文政・天保年間に成立した犬山の地誌。
 日比野氏の論考は表紙裏「目次」には「10.」の番号が打ってあり、右開き31頁の1~14頁。
 10頁下段2行め~11頁上段「六 自筆本の献本」に文政九年(1826)三月に犬山城主成瀬家に献本したことに続いて、次のように述べる。11頁上段7~13行め、注の番号は当該字句の最後の文字の右傍下寄せに横並びに添えているが、再現出来ないので後に添えた。

 献本先については、今一人、堀有定が考えられる。
 近藤秀胤写本の巻之二の最後尾に次の一文が記されている。
「前書本ハ當国犬山産神職赤堀象麻呂藤原朝臣秀雅蔵本
嘉永弐歲己酉年三月下旬写。當時犬山久吾自書二通有由。
尾陽犬山城内近藤清九郎藤原阿曽美 秀胤写 (印)(印)」
 近藤秀胤は、針綱神社の神主である赤堀秀雅所蔵本によって写本/しており、肥田信易の自筆本が二組あったと云っている。
 小島由松が一九〇一年(明治三四年)に写本した底本も赤堀家所/蔵のものであった。
 犬山の産社針綱神社の神主は(赤)堀家が世襲しており、肥田信/易は既に神職を隠退していた堀有定から『犬山里語記』執筆の協力/を受けていたばかりでなく、有定を尊敬していたから献本の可能性/はきわめて高い。


 13頁下段~14頁「」を見るに、14頁上段17行め~下段3行め、

⒃ この写本の最後に次のように書かれている。
 「此犬山里語記盤當所中本町梅鉢屋久吾乃作也。往古与り聞傳見知/ りたる事を細尓書志流し侍りたり。後世人の為なり。古今珎ら敷名/ 誉の人とあら免。かん春流毛のなり。こた飛赤堀播磨守所持の由、/ 木野村日比野孫右衛門より借り、子孫永続の為尓写置毛の也。
 追言 梅鉢屋肥田半三郎氏休息之際求之。明治三拾有四年辛丑仲春/ 美濃国加茂郡坂祝村大字勝山木野 小島由松痿書
 「赤堀播磨守所持の由、木野村日比野孫右衛門より借り」の表現の/ 解釈であるが、赤堀が所持していたのを日比野に借りてもらっての/【上】 意味にとった。
⒄ 旧市橋家本の拾遺で「前神主大隅守有定ハ希代名誉の人也」云々/ と誉めたたえている。


 日比野晃は昭和37年(1962)に立命館大学文学部史学科日本史を卒業、昭和41年(1966)に立命館大学大学院文学研究科(日本史学)を出ている。学位は文学修士なので博士課程単位取得退学なのかも知れない。長く中日本自動車短期大学の教員を務めていたが、中日本自動車短期大学「論叢」創刊号(昭和44年9月・中日本自動車短期大学附属研究所)から寄稿しており当時の肩書は「中日本自動車短期大学専任講師」であった。中日本自動車短期大学には昭和42年(1967)創立時から勤務していたのかも知れない。中日本自動車短期大学は愛知県犬山市の北に、木曾川を挟んで隣接する岐阜県加茂郡坂祝町にあるので、犬山を調査対象に選んだものと思われる。尤も、日比野は岐阜県に最も多く、愛知県がこれに次ぐ姓らしいので、元々この辺りの出身だったのかも知れない。
 中日本自動車短期大学論叢編集委員会 編集「論叢」第5号(1973年12月15日発行・中日本自動車短期大学・122+26頁)から『犬山里語記』の研究を長年発表し続けていた。第5号は右開き26頁が、まだ講師であった日比野氏稿で、1~6頁「『犬山里語記』について―肥田信易とその周辺―」7~26頁「校訂『犬山里語記』(巻の一)」、表紙裏「目次」には前者が「11.」後者が「12.」である。「梅鉢屋久吾」は前者によると『犬山里語記』の著者肥田信易(1840.十.五歿)名は久吾、信易は号。岡田氏で最初の妻・益(鷲見氏)との間に2女があったが、益(1777~1802.三.二十九)に先立たれた後に梅鉢屋肥田氏に入夫している。享年不詳ながら益の生年からして歿時には還暦を越えていたと思われる。
 日比野氏による『犬山里語記』の校訂はこの後第6号(巻の二)第10号(巻の三)第11号(巻の四)第12号(巻の五)第13号(巻の六)第14号(巻の七)第15号(巻の八)第16号(巻の九・十)第17号(巻の十一・拾遺)と掲載され、最後に第30号に「諸本について」が纏められた訳である。なお日比野氏の校訂本の底本は著者肥田信易から数えて六代目の肥田啓三が所蔵する、巻之一は著者自筆、そして巻之二以下11冊は啓三の祖父半三郎が小島由松から明治34年(1901)に譲り受けた(従って私は書写が明治34年とは思っていない。もう少々早かったのではないか)本に拠っている。
 さて、やっと本題に戻ろう。――小島由松書写本にはない、近藤秀胤書写本の巻之二の書写奥書に登場する「赤堀象麻呂藤原朝臣秀雅」であるが、嘉永二年(1849)に犬山の針綱神社の神職だったのだから、もちろんダイヤモンド社の赤堀秀雅とは別人である。
 この象麻呂の秀雅は、赤堀又次郎の父もしくは祖父くらいの年齢になりそうだ。日本には、余り父祖の名を子供に付けるという習慣はないが、犬山出身の知識人であった赤堀又次郎が、自分とは全く関係のない郷里の名士の名をわざわざ息子に付けるようなことをするとは思われない。とにかく、自分の血筋に関する記念のために敢えて、このように命名したのではないか、と考えて見たのである。これが理由の④である。(以下続稿)
追記①】私も大概原本の文字をそのまま使いたがる者ではあるが、日比野氏は変体仮名字母のまま翻刻しており少々読みにくい。原本を見ていないので厳密なものではないが、小島由松の書写奥書の変体仮名を通行の仮名にして翻刻して置こう。

此犬山里語記は当所中本町梅鉢屋久吾の作也。往古より聞伝見知りたる事を細に書しるし侍りたり。後世人の為なり。古今珍らしき名誉の人とあらめ。かんするものなり。こたひ赤堀播磨守所持の由、木野村日比野孫右衛門より借り、子孫永続の為に写置もの也。
 追言 梅鉢屋肥田半三郎氏休息の際求之。明治三拾有四年辛丑仲春美濃国加茂郡坂祝村大字勝山木野 小島由松痿書

追記②
 名古屋市図書館の「なごやコレクション」にて閲覧出来る「名古屋市史編纂資料 和装本」の『犬山里語記』は4冊本、その「四」冊め、四七丁裏8行め~四八丁表3行め、2字下げ、名前の前は少し広く開ける。

安政二乙卯夏六月十二日午時ニ至而/書冩畢原書当初産社之神職/赤堀家之藏書ニ而撰者信易之/所冩也永収予家為老後之翫
      近藤秀胤書写


 先に引いた巻之二の書写奥書では若干曖昧であったが、これにより赤堀家にあったのが著者自筆本であったことが明らかである。