瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(20)

・赤堀象万侶⑤水谷眞清・叔彦
 赤堀象万侶は神官にして国学者歌人であったのだがその著作は伝わっていないようだ。
・『犬山』明治三十八年八月十五日印刷・明治三十八年八月二十日發行・犬山壮年會(東京)・目次+口絵+六十頁
 口絵の次にある序に当たる文章(頁付なし)の冒頭「此小册子は本會創立第二十年の記念として發行した/るものにて‥‥」とあって、犬山壮年會の会員の中から3~4行め「特に委員を選/定して分擔調査せしめ詳細正確を期し」たもので、当時の犬山の状況を纏めたパンフレットだが、二十七~三十八頁「教育」二十七頁2行め~三十二頁6行め「◎維新前の教育」二十七頁3行め~三十頁9行め「▲文道」に、三十頁1~2行め、

國學を好み和歌を能くせしは水野齋宮(號稻城)、山田荘平(雅名重稔/號常山 )八木雕(號萃堂)、赤堀象麿、/加藤安彦(號松園)、尾關信業等也

と名前が見えている。維新前に活躍した人を挙げているようであるが犬山藩藩校敬堂館教授であった八木雕(1828.九.二十二~1910.4.30)は生存していた。
・水谷真清 編輯『日本地誌畧名稱訓』明治九年十二月十一日版權免許・同十年六月刻成・定價二十三錢・慶雲堂(栗田東平・名古屋)
 書名は内題に拠る。
・水谷真清 編輯『日本地誌畧字解』明治十年十一月七日御届・同十一年五月刻成・定價二拾五錢慶雲堂(栗田東平・名古屋)
 書名は題簽及び見返しに拠る。題簽を代え、内題・尾題の文字を削って「日本地誌畧」と改めて、巻頭1丁の題字を代えて別の書物のように装っている*1全く同内容であるようだ。詳しい照合をすると長くなるのでこれ以上立ち入らないで置こう。
 題字に続いて「凡例」が1丁あってこれは裏9行め「皇紀二千五百三十六年十一月」が「皇紀二千五百三十八年五月」に変わっているだけであるが、3項中2項め(表5~7行め)の後半(6~7行め)、

‥/‥祭神ノ一説トアルハ吾友赤堀象万侶ノ/考ナリ

とあって、確かに日本各地に祀られている「神」に関する項目にのみ、20箇所ほどに「一説」として別の祭神を挙げてある。しかしこの裏付けとなるような著作を赤堀象万侶本人は発表していないらしいのである。
 さて、この水谷真清だけれども、奥付に「愛知縣士族」と肩書して、前者には「第四區丹羽郡稻置村/三百三拾八番地」後者は「三百二拾八番地」と、2つめの「三」の1画めが欠けている。稲置村は、明治5年(1872)に犬山村が改称し、明治22年(1889)10月1日に犬山町として町制施行するまで称していた。
・『人事興信録』第三版(明治三十六年四月十五日第一版印刷・明治三十六年四月十八日第一版發行・明治四十一年六月十五日第二版印刷・明治四十一年六月十八日第二版發行・明治四十四年四月 一 日第三版印刷・明治四十四年四月 四 日第三版發行・正價金八圓・人事興信所)み六〇頁下段9行め~み六一頁上段4行め、まづ大きく「水 谷 叔 彦」としてその下に位階勲等家柄について、

正五位勳三等功四級、海軍機關少/將、呉海軍工廠造機部長
東京府士族

と3行、続いて3字下げで行間を広く取って2行、

妻  ま ち 明四、三生、福井、士、大館源太郞妹
男  八 郞 明三七、一〇生

と妻と嫡男を挙げ、次いで、

君は元愛知縣士族水谷眞清の長男にして慶應二年十二月/二十八日を以て生る明治十八年七月海軍機關學校を卒業/し同十九年十月海軍少機關士に任し同二十六年六月英國/に留學を命せられ同三十六年機關大監に任し呉海軍工廠/造機部長兼海軍大學校教官に補し同四十年四月英米に差/遣せられ同年十一月歸朝同四十二年十二月海軍機關少將/に進陞し現に呉海軍工廠造機部長たり曩に日露戰役の功/に依り勳三等に叙し功四級金鵄勳章を賜はる家族は前記/の外長女久(明三一、八生)三女春(明三五、四生)二男九郞/【み六〇】(同四〇、七生)四女道子(同四二、一〇生)あり弟逞三(同/四、七生)は其妻子をを伴ひて分家し同最(同一七、四生)も/亦分家し同氶(同一一、三生)は東京府大須賀千代の養/子となれり(呉、和庄通三ノ八九)

とある。2019年10月1日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(130)」に取り上げたこれ以前の版には見えない。
 3月26日付(05)に見たように、水谷叔彦(1866.十二.二十八~1947.12.10)の明治26年(1893)の英国留学に際して、赤堀氏が送別会で祝辞を述べているのだが同郷で同年の友、そしてその父水谷真清も、赤堀氏の父象万侶の友人だった訳である。水谷真清の「愛知県士族」とはすなわち、犬山藩士だったのであろう。
・『人事興信録』第四版(明治三十六年四月十五日第一版印刷・明治三十六年四月十八日第一版發行・明治四十一年六月十五日第二版印刷・明治四十一年六月十八日第二版發行・明治四十四年三月二十日第三版印刷・明治四十四年三月二十五日第三版發行・大正四年一月六日第四版印刷・大正四年一月十日第四版發行・正價金拾圓・人事興信所)では3段組になったためみ三五頁下段に見えている。記載内容は名古屋大学大学院法学研究科「『人事興信録』データベース」で国立国会図書館デジタルコレクションよりも鮮明な画像データと、全文テキストデータとして閲覧出来るので全文を抜く必要はないだろう。大きな違いは「豫備仰付られ」て「現時株式會社日本製鋼所取締役たり」そのため住所が「(北海道、室蘭、日本製鋼所社宅)」となっていることで、他にも妻の兄が死去していること、「五女秋子(同四四、一一生)」が誕生したこと、弟逞三の妻「さた(同一六、一生、福井縣人永宮藤太郞長女)及」が追加されているが、誕生日の次に「明治二十年九月家督を繼ぐ」が追加されていることが、特に注意される*2
 水谷真清の名は「犬山壮年會雜誌」に見えないのだが、それは明治20年(1887)に歿していたからだと思われるからである。(以下続稿)

*1:【6月7日追記】『日本地誌畧字解』定価の後の中黒点及び「が」1字を補う。

*2:【6月4日追記】「こと」を補う。