瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(15)

・赤堀秀雅③
 赤堀秀雅の名は、ダイヤモンド社が刊行していた『ポケツト会社職員録』にも見えている。
・第四回〔昭和十四年版〕昭和十三年十二月 十 日 印 刷・昭和十三年十二月十三日 發 行・定價二圓五十錢・一四+五+八四五+一四五頁
 第三回までは自社の情報を載せていなかった。
 七一九~七二五頁【印刷出版】17社の最後、七二五頁中列27行め~右列、まづ稍大きく「株式會社經濟雜誌ダイヤモンド社」とあって、上下を少し空けて1字下げで「東京麴町區霞ヶ關三/ノ3、電銀座4155―9」と住所電話番号を添える。続いて31行め「 【社長】石山 賢吉」以下19人と大阪支局の住所電話番号が紹介されるが、13人め(右列28~31行め)に、

【ダイヤモンド編輯主/任】赤堀秀雅  明32/東京、東京市牛込區早/稻田南町4

とある。これにより赤堀秀雅の生年が明治32年(1899)と判明する。慶應二年(1866)生の赤堀又次郎の息子と見るべき年齢差である。
・第五回〔昭和十五年版〕昭和十四年十月廿五日 印 刷・昭和十四年十月三十日 發 行・定價二圓八十錢・一四+六+九四三+一五八頁
 七九〇頁左列34行め~七九七頁【出版印刷】19社の12番め、七九三頁右列23行め~七九四頁左列40行め「株式會社經濟雜誌ダイヤモンド社」の、17人中12人め(左列19~22行め)に〔昭和十四年版〕と全く同内容で見える。
 第六回は国立国会図書館には所蔵されておらず、国立国会図書館デジタルコレクションでは閲覧出来ない。
・第七回〔昭和十七年版〕昭和十六年 十 月廿五日 印  刷・昭和十六年 十 月三十日 發  行・定價三圓五十錢・一六+一〇四〇+一七三頁
 八四〇~八四八頁【出版印刷】17社の12番め、八四四右列21行め~八四五頁左列「株式會社經濟雜誌ダイヤモンド社」の、20人中14人め(左列26~29行め)に〔昭和十四年版〕及び〔昭和十五年版〕と全く同内容で見える。
・第八回〔昭和十八年版〕昭和十七年十一月廿五日 印  刷・昭和十七年十一月三十日 發  行・定價三圓六十錢・15+1065+181頁
 778頁右列~786頁【出版印刷】14社の最後、786頁中列14行~右列「株式會社經濟雜誌ダイヤモンド社」の23人には【ダイヤモンド編輯主任】も「赤堀秀雅」の名も見当たらない。
 赤堀秀雅は戦後、ダイヤモンド社に復帰するのだが、終戦前後、ダイヤモンド社から出て満洲に渡っていたのである。理由はまだ突き止めていない。
満洲藝文年鑑編纂委員會『滿洲藝文年鑑』康徳九年度版(康徳十年十一月十一日印刷・康徳十年十一月十五日發行・定 價 四  圓・滿洲冨山房・三五八頁)
 康徳十年は昭和18年(1943)。二八六頁下段11行め~二八七頁中段20行め「△滿州日日新聞社」の「役員並幹部社員」の二八七頁上段6~17行めに大連支社の幹部社員を列挙するが、その最後が「(大連商工新聞主幹兼編輯長)赤堀/秀雅」である。
 従って、赤堀秀雅は赤堀氏の病歿及び空襲には立ち会っていない。
 ところで、反町茂雄が赤堀秀雅の存在に気付かなかったのは、赤堀氏が息子が出勤している時間に反町氏を招んでいたからであろう。しかし、反町氏が赤堀家を訪ねた昭和9年(1934)から昭和15年(1940)、赤堀秀雅は40歳前後である。同居していてその気配を全く感じないなどと云うことがあるのだろうか。
 この点については、経済評論家三鬼陽之助(1907.8.3~2002.10.5)の文章が参考になる。
・三鬼陽之助選集第一巻『経済記者の足跡』昭和三十二年六月十 五 日 初版印刷・昭和三十二年六月二十五日 初版発行・定価 二 八 〇 円・財界研究所・2+9+398+7頁
 三鬼氏は昭和28年(1953)に財界研究所を設立、社長に就任し雑誌「財界」を創刊、本書は50歳を前に執筆した自伝である。
 1~54頁「第一部 ダ イ ヤ モ ン ド 社 時 代」に、昭和6年(1931)3月に法政大学を卒業、4月にダイヤモンド社に入社するのだが、その入社試験のときのこととして、10頁11行め~13頁10行め、4節め「石山賢吉氏と会見」に、11頁9行め~12頁1行め、

 結局、モウ一ツ論文を書くことになった。それは、電力、砂糖、海運、木材のうち二ツを選ん/で、一週間以内に市況を書いてこいということであった。
 私は迷った。ところが、幸いに、前記の告天社の志村先輩の関係で、赤堀秀雅氏を紹介され/た。氏は、いまでもダイヤモンド社に在勤、活躍されていられるらしい。当時、赤堀氏は、学校/出のすくないダイヤモンドのなかで、京都大学出身の記者として、存在を謳われていた。ただ、/いわゆる勤勉家でなく、マタ非常な美男子に拘らず、長く独身生活を続けていた変り種であつ/た。しかし、私には恩人である。私が石山社長から四ツの課題から二ツ選んで論文を書くように/と言われた話をすると、「石山さんは電力、砂糖の権威だ。こんなものを君が書いたつて落第す/るにきまつている。海運と木材を選べ」と、教えてくれた。その上、海運は丸の内にある海運会/【11】社、木材は深川の木場に行って調べよと、教えてくれた。

と見える。その結果書き上げた論文で三鬼氏は「入社の内約」を得るのである。
 さて、ここに赤堀秀雅は「非常な美男子」だったのに「長く独身生活を続けていた」とある。――同居して妻子がいれば、姿を見せなくてもそれと分かる。毎回2時間の雑談にも出たかも知れない。しかし独身で、その出勤時=不在時に訪問していたため反町氏はその存在に全く気付かず、そして敗戦後に聞いた空襲の際の話題にも登場しなかったために、いよいよ赤堀氏の描写が隠者めくことになったのではないか、と思われるのである。
 さて、三鬼氏の入社直後の場面も抜いて置こう。12頁12行め~13頁2行め、

 私と、モウ一人、中央大学卒業の川島篤氏が入社した。たしか歳は私より二ツ上で、私より一/週間ほど遅れたと思う。鈴木弘という古参記者が辞すので、その後釜に私たちは入社したのだ/が、勤務部署は二人とも編集局の会社部であった。そこには、石山賢吉、阿部留太の両長老をは/じめ、十数人の記者が控えていたが、鉄、造船、セメント、製粉の四事業を、私と川島氏が二事/業づつ選ぶことになつた。その時も、私は赤堀氏に相談した。すると、氏は言下に「鉄、造船は/不況で駄目だ。まだ製粉、セメントの方が面白い」と、いわれた。私の方が一週間の先輩という/【12】訳で、多分、先決権があつたのであろう。私はセメント、製粉部門を担当することになつたので/ある。


 敗戦時に満洲にいたことは、次の雑誌への寄稿から判明する。
・「東京だより」第十號(昭和二十五年五月一日發行・定價三十円・東京だより社・64頁)
 表紙に「石山賢吉」の名が見え、また東京だより社の住所が「東京都千代田區霞ヶ關三ノ三/ダイヤモンド印刷ビル四階」であることからして、ダイヤモンド社系列の雑誌である。58~59頁下段7行め、赤堀秀雅「立派なソ聯の兵隊さん」に、余り具体的な経緯は分からないが、帰国までに接したソ連兵の印象が述べられている。肯定的に描いているのは占領下だったからなのか、それとも独身・エリートの赤堀氏は余り酷い目に遭わずに済んだからなのか。59頁下段左の囲みに「◯本號執筆者紹介/(執筆順)」として10名、その最後に「赤堀秀雅 ダイヤモンド社論説員」とある。
 赤堀秀雅は『日本蒐書家名簿』に名前が載るくらいだから、和本や古典籍に趣味があったかどうかは分からないが、全く価値が分からない、と云うことでもあるまい。そうすると、未亡人は焼け出されて親戚を頼り、大陸に渡った息子の帰国を待ちながらも消息のないままに、シベリア抑留などと云った話も出る中で、夫が最後に託した『雑字類書』を息子に伝えることを諦めて、売却を決意した、と云うことになろうか。
 帰国した息子と再会出来たのか、気になるところだけれども、それを辿る手懸りは、ちょっと探せそうにない。(以下続稿)