・赤堀象万侶⑪ウルル
赤堀又次郎の父・赤堀象万侶についてはまだ分からないことばかりである。今は見出した少ない資料からその経歴・交遊圏を辿って行くばかりである。
・「風俗畫報」第二十號(明治二十三年九月十日刊行・定價/一部金拾錢・東陽堂編輯所・三十八頁)
十三頁上段11行め~十四頁下段17行め「◯飲食門」3条のうち1条め、十三頁上段12行め~下段3行め「●ウル〻」、
◯飲 食 門
●ウ ル 〻 根岸の里 茶 六
豫て皇國學びに熱心なる赤堀象万侶氏は舊尾張國丹羽郡犬山な*1/る針綱神社の神官たりしが維新の後轉して美濃國武儀郡關村の*2/春日神社の祠官となりて今尚奉祀する人なり頃日久しぶりにて*3/出京したりとて我茶六菴を訪ひ舊話晩酌の際に袂より紙に包み*4/たるものを出し盃に添て曰く是はこれ我美濃國の深山幽谷の清*5/流に産するウル〻といふ物にて源順の和名類聚抄卷十九龍魚の*6/部に細魚〈海糖/附 〉漢語抄に云細魚〈宇留/里古〉乾海糖〈阿美今按ルニ/所レ出並ニ未レ詳〉とあるウル*7/リコハ則これなりといふをみれは其形ち鯊に似て纔に一寸に足*8/【十三上】らぬ小魚なり上溜(東京の醤油)を以て煮しめ炎暑の日に乾して*9/もたらしたるなりと其味ひ淡美にして更に一酌をすゝめたり仍*10/て氏が篤志に感して爰に一言す*11
これにより維新後の赤堀象万侶は美濃国武儀郡関の春日神社、現在の岐阜県関市の関春日神社の祠官としてここを拠点として、武儀郡下の諸社の神職を兼務していたことが察せられる。「今尚」とは維新前から神官で、明治も23年になる今でも、と云うことで、まだ赤堀象万侶の生年を突き止めていないが、明治23年(1890)には60代かそれ以上であったことは間違いない。
名前の読みは確かに「まさまろ」とあって、4月9日付(019)に見た吉川芳秋『蘭医学郷土文化史考』に一致する。しかし4月7日付(017)の【4月12日追記】に追加した佐々木弘綱 編輯『明治開化和歌集』巻下の記載からしても「きさまろ」が正しく、「きさまろ」と云う変わった名前――特に「象」の読みが「きさ」と分からぬまま、ありそうな読み方に、「き」を「ま」の書き損じか何かと見做して勝手に直して(!)しまったのだろう。
ところで、この記述から赤堀象万侶の名が国学者として知られていたかのように考えるのは、速断に過ぎよう。
茶六・茶六庵は日本画家川崎千虎(1836.十二.二~1902.11.27)の号、尾張名古屋の人で尾張藩士の浮世絵師川崎美政(1807~1881.8.16)の子息、当時東京美術学校教授であった。当時の住所は『東京百事便』(明治二十三年七月八日印刷・明治仝 年仝月九日出版・定價金九拾五錢・三三文房・四+十+七百八十四+四頁)五百三頁2行め~五百五頁7行め「畫家」五百三頁3行め~五百四頁4行め「日 本 畫 之 部(いろ/は順)」の9人め(五百三頁上段12行め)に、
〈土佐派にして最も/古實に精し 〉 川 崎 千 虎〈下谷區根岸金杉村/三百廿四番地 〉
とある。しかし「最も故実に精し」と評される人物がその実力を認め、そして子息が赤堀又次郎なのだから、やはり赤堀象万侶も実力ある国学者だったのであろう。千虎よりは10歳以上年上で美政よりはもちろん下である。犬山の針綱神社の神官であった頃、名古屋の川崎家と交流があったのであろう。