瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

石角春之助 編輯「江戸と東京」(11)

・濱本浩「塔の眺め」(7)
 一昨日からの添田知道「十二階の記憶」の検討の続き。39頁中段22行め~下段13行め、

 だからこれは「だまかした」といふ/のとは些か違ふ。濱本氏にも此の通り/【39中】話したのであつたが、それが「十階目/の飴屋をだまかしたことだの、文なし/でキネマグラスを覗いたり、塔の上か/ら銘酒屋の窓に望遠鏡を差し向けた/り」といふ風に現れたのは、これがお/そらく『文章のあや』なのであらう。
 それに當年御歳十才のことゝて、未/だ銘酒屋に關心を持つところまで行つ/てゐなかつたし、假に持つたとしても/十二階の上から、足下の銘酒屋に望遠/鏡を向けても、これは意味をなさなか/つたらう。屋根ばつかりしよんがい/な、である。呵々。


 添田氏が引用している箇所は9月27日付(09)に取り上げた。そこでは昭和35年(1960)頃に添田氏からこれと同じ体験について聞かされたと云う喜多川周之の「問わず語り」と、かなりの喰違いがあることを指摘して「添田氏が本当にこんな話を濱本氏にしたのか、と云う疑念も生じない訳でもない」と突っ込んでから「間違いがなさそうだ」として置いたのだけれども、この「十二階の記憶」では添田氏本人が「濱本氏にも此の通り話したのであつた」と述べている。
 そうすると、濱本氏は自分の小説の設定とは関わりなさそうな明治末年の甘酒招待券の話は余り真面目に聞いていなくて、半年以上を経た「塔の眺め」執筆時には、子供の悪戯を3つばかり聞かされたかのような印象しか、残っていなかったのだろう。さもなければ他に取材したと云う「五十人ばかりの人」の誰かの話が混ざってしまったのかも知れない。――「文なしでキネマ・グラスを覗いたり」に添田氏が反論を加えていないことが私には少々引っ掛かるのだが、今はまぁ、引っ掛けて置くしかない。
 そしてこの「十二階の記憶」では、甘酒屋を「だまかした」話とは別箇のものとして「銘酒屋」に対する反論が為されていたことが分かる。
 ところが9月22日付「佐藤健二『浅草公園 凌雲閣十二階』(5)」に引いた、喜多川周之の「問わず語り」では「とほうに暮れながら、アリのように小さく見える路上の人たちを見つめていた」と語ったのに濱本浩が「塔の上から私娼街の窓を見つめていたかのように書いた」――それで添田氏が「冗談じゃない、そのときはほんとうに子どもだったんだって。多少の色気はあっても、甘酒茶屋の関所をどう通過したらいいか思案に暮れていたので、そんな余裕はなかったよ」と笑っていた、と、甘酒屋の件と抱き合わされてしまっている。
 喜多川氏の記憶に間違いがないとすれば、添田氏の中で、濱本氏に反論してから20余年、その間に戦争もあって、いつの間にか銘酒屋(私娼窟)の件が、甘酒屋の件に紛れ込んで、そこが濱本氏に対する反論のポイントであったかのような思い込みになってしまったらしい。さらに、甘酒屋から逃げたときに銘酒屋など見ていなかった、と云うところからさらに翻って、新たに、別に見えていたはずのもの――「アリのように小さく見える路上の人たちを見つめていた」記憶が捏造されてしまったのではないか。
 なお「屋根ばっかりしょんがいな。呵々。」とは俗曲「梅は咲いたか」の1番と2番の最後「◯◯ばっかりしょんがいな」を使って批判の調子を少しマイルドにしようと云う工夫で「呵々」は今であれば「(笑)」とするところだろう。呵々。(以下続稿)