瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

石角春之助 編輯「江戸と東京」(09)

・濱本浩「塔の眺め」(5)
 昨日取り上げた「十二階の斜塔」問題には、実はもう少々資料があるのだけれども、濱本氏の文章の関連では『淺草』1冊で十分なので、後回しにして先に進もう。
 続く段落に添田知道(さつき)が登場する。32頁上段17行め~下段11行め、

 その頃のある夜、友人の添田知道君が遊びに來た。添田君/は啞禪坊翁の子息でさつきと號し、淺草育ちの作家である。/奇骨があつて正直な男だから、これなら事實を判斷して呉れ/るにちがひないと、きいて見ると、殘念ながら同君は、十階/【32上】目の飴屋をだまかしたことだの、文なしでキネマ・グラスを/覗いたり、塔の上から銘酒屋の窓に望遠鏡を差し向けたりし/た以外に、風景など、そんな風流な記憶はなかつた。だいた/い昔から江戸ツ兒は、自然と云ふものに縁遠く、人間にしか/興味を持たぬ怨みがある。江戸時代でも今日のいはゆるハイ/キングをやつて、近在の百姓家で茶など所望したのは、江戸/ツ兒でなく、たいがいお國者の勤番侍だつたから、添田君が/山など覺へぬと云つても不思議ではなからう。
 そんなわけで、十二階の上から信濃の山が見へるか何うか/解決がつかぬうちに、私の小説はすんでしまつたし、また、/さうなると何うでもよいことだつた。‥‥


 濱本氏が添田氏の訪問を受けたのは「淺草の灯」連載中のことだったらしい。尤も後述の添田氏の文章では連載前のことのようだ。
 それはともかく、ここが9月22日付「佐藤健二『浅草公園 凌雲閣十二階』(5)」に引いた、昭和35年(1960)頃に喜多川周之添田知道から聞いた「後日、濱本さん」が「書いた」内容なのである。
 さて、これだと、少年時代に十二階を遊び場にしていた地元の人間が、当時の十二階の思い出として語った取り留めもない悪戯の数々から特に印象的な3つを列挙して、結局余り実のある話を聞くことが出来なかった、と主張するような書き振りになっている。
 添田氏が喜多川氏に語ったような、甘酒の無料接待がある日突然中止されて無銭飲食したことになってしまい、進退極まったと云うような、明瞭な筋のある話を聞かされたようにはまるで読めない。1つめの「十階目の飴屋をだまかしたこと」が、「甘酒招待券」を拾って「九階の甘酒茶屋」で只で甘酒を飲んでいたことに相当するのだろうが、それが3つめの「塔の上から銘酒屋の窓に望遠鏡を差し向けたり」に関連するようには書いていない。ここが「知道さんが塔の上から私娼街の窓を見つめていたかのように書いた」に該当する訳だけれども、甘酒茶屋の「給仕の女の子」から逃げて途方に暮れていたときに眺めたと云った風には書いていない。濱本氏はこの2つを別箇の出来事として、添田少年が甘酒茶屋か飴屋だかとは無関係に、銘酒屋すなわち飲み屋を装った売春宿(十二階下の私娼窟)を観察するために十二階に登って、望遠鏡を覗いていたかのように書いているのである。
 そうすると、添田氏が本当にこんな話を濱本氏にしたのか、と云う疑念も生じない訳でもないのだが、これは間違いがなさそうだと云うのが、濱本氏の「塔の眺め」が載った3ヶ月後に出た2号後の号に、この件に関する添田氏の反論と云うか抗議が載っていて、ここに後年、喜多川氏に語ったのとほぼ同じ話が書かれているからである。まぁこう云うことは聞いた方よりも話した方の記憶の方が正確なものである。
・「新文化」第四卷第三號 昭和13年(1938)4月1日發行
 2~3頁(頁付なし)「目 次」の3頁4~6行めは、上下に子持線を添えた「物讀別特」との文字が上にあって、齋藤昌三「チヤブの語源」、添田知道「十二階の記憶」、抽那長司「悲しき狼煙」の順に並ぶが、掲載順は添田・斎藤・抽那の順で纏まって掲載されている訳でもない。
「十二階の記憶」は3段組で38頁右側は6行分、3段抜きで題と著者、39頁は全て本文で40~41頁は下段が「綺堂先生の書簡」、41頁上中段は4行めまでで残りはABC「五錢コーヒーのピカ一」と云う匿名の囲み記事になっている。冒頭部を抜いて置こう。38頁上段1~13行め、

 本誌正月號の「塔の眺め」を讀んで/行くとよくわかるやうに、濱本氏の作/家としての苦心には驚くべきものがあ/る。「淺草の灯」にかゝる前に話した時/に既に五十人ばかりの人に逢つたとい/ふことだつた。寧ろ時には必要以上の/苦勞を拂つてゐるのではないかと思は/れさへするのであるが、自分も材料に/はひどく拘はる方なので、此の氣持ち/はよくわかるし、時には千里の道を遠/しとせず、實地檢證にも出掛けて行く/忠實さには敬服せざるを得ないのであ/る。


 これはまぁ挨拶で、ここから濱本氏の「塔の眺め」に対する異議申立てになるのである。(以下続稿)