瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

佐藤健二『浅草公園 凌雲閣十二階』(5)

 第三章「「十二階凌雲閣」問わず語り」については、細目を示して置きたいようにも思うのだが、どうもこのところ先月に比べれば随分涼しくはなったけれども、湿度は高いままで、どうにも草臥れたままである。よって直ちに本題に入ろうと思う。
 この第三章の大半を占めるインタビュー風の「喜多川周之「十二階凌雲閣」問わず語り」の「四 凌雲閣の建設――基礎をつくり煉瓦を積み上げる」の節は、まづ見出しなしで230頁4~6行め、1字下げ、前後1行分ずつ空けて「――」で始まる佐藤氏の質問があって、続く7行め~232頁13行めに、その答えのようにして明治23年(1890)の凌雲閣建設のこと等が語られている。次に1行分空けて232頁14行め「凌雲閣十二階の経営者たち」の項の見出しがあって、235頁18行めまで。この節にはもう1項、235頁19行め「衛生技師ウィリアム・K・バルトン」とあって章末245頁まで項を改めていないように見えるが、240頁5行め~241頁4行め、十二階の煉瓦についての佐藤氏の質問があって、残りは煉瓦の話になっている。
 そうすると、佐藤氏はこの「問わず語り」を、見出しもしくは自分の質問を差し挟むことによって項目分けしているので、この「」節は都合4項から成っていることになる。――これではどうも細目を示すのも簡単ではない。止めて置いて良かった。
 さて、昨秋私が図書館で手にして本書を借りようと思ったのは、「」節の2項め「凌雲閣十二階の経営者たち」に差し挟まれる次の挿話を読んで「おやっ」と思ったからなのである。234頁3行め~235頁13行め、但し234頁は通常1頁20行で組まれているところ、右側13行分に図版が2つ挿入されているので本文が7行しかない。

 昭和三五年(一九六〇)ごろだと思うんだけれど、添田知道(さつき)さんに、十二/階の話を聞いたことがある。添田さんは子どものころ、よく十二階の階下にあった演芸/場に行ったっていうんだ。この明治四五年前後じゃあないかな。下谷の万年小学校の小/学生だよ。演芸を見に行くんじゃなくて、そのころはさっき言ったみたいに客寄せの手/段として、入場者に甘酒招待券というのを出していた。【234】
 大人たちはわざわざ九階の甘酒茶屋へなんぞ、よほどの者でもなければ登っていか/ない。だから招待券が椅子の下あたりに捨てられている。これを子どもたちがひろっ/て、甘酒を飲みにいったんだそうだよ。子どもたちは、正直に甘酒を飲むと、十階の屋/上を一周して降りていく。ところがあるときに券による接待が中止されてしまった。甘/酒だけは飲んだが、支払いの金はもちろんない。そのまま給仕の女の子に面と向かわれ/て、ことばも出ずに夢中で駆けだしたっていう。いつも塔の上を一周回る習慣がついて/いるんで、このときも階上に向かって逃げた。ほっとしたのもつかの間、階下の甘酒茶/屋の前を通らないと地上には帰れない。添田少年はとほうに暮れながら、アリのように/小さく見える路上の人たちを見つめていたというんだよ。
 この話を濱本浩にしたら、後日、濱本さんは、知道さんが塔の上から私娼街の窓を見/つめていたかのように書いた。知道さんが言うには、冗談じゃない、そのときはほんと/うに子どもだったんだって。多少の色気はあっても、甘酒茶屋の関所をどう通過したら/いいか思案に暮れていたので、そんな余裕はなかったよと笑っていた。


 若干、直前に述べたことを踏まえたところもあるが、わざわざ其処まで引用するには及ばないだろう。
 ここを長々と抜いたのには理由がある。
 佐藤氏はこの話について、特に脚註に関連文献を挙げていない。この234~235頁見開きの脚註欄は真っ白である。
 私が「おやっ」と思ったのはここである。佐藤氏は濱本浩(1891.4.20~1959.3.12)の文章、そしてこれに添田知道(1902.6.14~1980.3.18)が抗議したことを知っていたはずである。
 私はたまたまこの一件を読んでいて、それで浅草十二階の本を手にしたので、添田氏の主張内容も少々怪しいことに気付いて、それで本書を借りて帰って9月17日付(1)に述べたように直ちに確認することが出来たのである。
 ただ、昨日までのような、本書の内容を確認する記事を当時準備する余裕がなかったので、何もしないまま全て返却し、今になってしまったのである。
 その濱本氏の文章は、明日からしばらく検討することとしよう。
 そして濱本氏に対する添田氏の反論も見て、この談話の評価を述べたい。その上で第四章についての「あとがき」の記述を見て、佐藤氏の著書の検討を一応終えることとしたい。(以下続稿)