瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

石角春之助 編輯「江戸と東京」(12)

・濱本浩「塔の眺め」(8)
 ここで一旦、添田知道「十二階の記憶」から離れて「塔の眺め」に戻ろう。32頁下段11行め~33頁上段9行め、

‥‥。ところで、最近になつ/て、田山花袋氏の著書の中に思ひがけなく「十二階の眺め」な/る一項があつた。早速讀んでみると、だいたい、こんなこと/が書いて有つた。
 東京の十一月にはまだ秋の氣分が殘つて居て、晴れた日に/は一天雲霧をとどめぬ好晴が續く。そんなとき十二階の上で/見ると、左は伊豆の火山脈から富士、丹澤、多摩、甲信の山/々、右には上毛、日光の山々を一々指點することができる。/平野地方に眼を移すと、荒川は布を引いたやうに殊にはつき/りと見へ、川越の伊佐沼も夕日に光つて見へる、と云ふ風に/【32下】四方の眺望をもつとこまかく、一々山の名などもあげ、いか/にも秋の眺めらしく、くつきりと描かれて居た。いま坐右に/その書物がないので、こまかく引章することができぬのは殘/念である。
 花袋翁は、上州館林の出身だつたから、十二階にのぼつて/山を遠望することを樂んだに相違ない。それに、人も知る旅/行家で紀行文の大家だつたし、見へぬものを見へると書く筈/は、絶對にないのだから、私は遲れ走せながら安心したわけ/だつた。


 田山花袋(1871.十二.十三~1930.5.13)の「十二階の眺め」は、佐藤健二浅草公園 凌雲閣十二階』に引用されているので、『浅草公園 凌雲閣十二階』第四章を検討する際に触れることにしよう。
 さて、これについて、添田氏は「十二階の記憶」の続く箇所で、痛撃を加えているのである。39頁下段14行めから40頁中段1行めまでを抜いて置こう。

 十二階といふと、どうしてもお伽噺/の中の塔であるから、ブルーバードや/レツドフエザー映畫に熱中するやうに/なつてはもう興味の對象ではない。考/へて見ると、てんで振り向きもしなか/つたといふ感じである。だからその後/登らせたのかいつ登らせなくなつたの/さへも定かではない。
 そこで信濃の山の問題だが、どうも/疑はしいと思ふ。花袋の紀行文は好き/【39下】で隨分愛讀したし確かにニユアンスを/持つた獨特のものではある。然し今讀/み直すと隨分粗雜なものであるし、或/る宿から見える筈もない山を見えると/平然と書いてゐるといふことを指摘し/て罵つてゐた登山家もある位だから、/(近頃は登山も科學的になつてゐるか/らこわい。然しあながち私はその實證/派に雷同して花袋を、花袋の持ち味ま/でを無視し去らうといふのではない/が)そんな點、花袋先生、かなり大膽/にやつゝけたのではなからうか。
 アルプス連嶺などが見えやうとはど/うしたつて思へない。若し見えるとす/れば、せい〴〵淺間邊であらう。或は/甲斐駒ヶ嶽と甲武信ヶ岳あたりとの間/に位する八ヶ岳などが辛うじて望まれ/るだらうか。それとてもコンデイシヨ/ン次第であらうから、大體に於て信州/の山は見えないと云つてもよいのだら/う。――然しその見えない山を見やう/として塔の上に幾度となく登りつゞけ/るといふやうな話はそれ自體一つの詩/【40上】ではないか。


 私も大家が書いているから間違いないとは少しも思わないので、添田氏の態度に賛成である。
 ただ、濱本氏も「淺草の灯」に「気が澄んで、眺望の利く日は」としているのだから「コンディション次第で」見えれば「信州の山」が見えたことにして良いと思うのだが。本当に見えることがあるなら。――それこそ、台東区か東京都の事業として、秋晴れの空気の澄んだ日にドローンを飛ばして凌雲閣十二階の12階があった辺りの眺望を記録してもらえないだろうか。今は色々邪魔が多いと思うけれども。(以下続稿)