瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

佐藤健二『浅草公園 凌雲閣十二階』(8)

 1頁白紙があって396~407頁「喜多川周之 著作および活動の目録」になる。ここに挙がっている雑誌や記事の多くは、所蔵している機関に出向かないと閲覧出来ないものが殆どのようだ。見に行こうか? いや、元より私は十二階に興味があると云うより、本書第三章に載る添田知道喜多川周之に語った内容が、添田氏が濱本浩に反論して書いた文章と大筋では同じなのだが微妙なところが喰違っていることに気付いた、ただのそれだけのことから始まって、本書の研究書として「風変わり」かつ「破格な」造り方にも惹かれるところがあり*1、やや細かく眺めて見たのだけれどもそもそも適任とは云えぬのだから、もうそろそろ切り上げるべきだろう。
 さて、これが「著作目録」ではなく「著作および活動の目録」を謳っているのは、展覧会への所蔵品出品や講演、テレビ番組への出演といった「活動」を◎印を附して織り込んでいるからで、しかし最後の出演は昭和54年(1979)8月27日であってみれば私は静岡県清水市に住んでいたからNHKでも東京ローカルの番組が放送されたかどうか。かつ放送されていても小学2年生が見たか、見ても別にどうもしなかったろう。
 最後は407頁13行め「一九八七年」で歿後、1行分空けて「発行年不詳」として2点、うち2つめ(17~18行め)は、

「江戸への道すじ」[「ずいひつ」とあるから『歴史読本』ではないかと思う。二〇〇号 までの総目録(七二年一二月号)及び/二〇〇号から三〇〇号の総目録にはなし。それ以降か]

となっているが、今はこれが国立国会図書館デジタルコレクションでたちどころに分かってしまう。国立国会図書館限定公開なので閲覧は出来なかったが、「歴史と旅」2巻12号(通巻24号)76~77頁(1975年12月・秋田書店)の「ずいひつ」欄に掲載されていたことが分かる。他も一々確認して行けば修正すべき点が見付かるかも知れないが、それこそ原資料に数多く接している人間がやるべきことで、原資料を見に行く気もない私なぞが出しゃばるべきではないだろう。
 さらに1行空けて最後に以下の3行(19~21行め)。

*テレビ番組や講演等にかんしては◎を冒頭につけたが、斎藤夜居資料の新聞の切り抜き、『狂蒐倶楽部』のあとがき及び会員活動広告の情報、/NHKアーカイブスのクロニクル検索その他、また江戸東京博物館所蔵のビデオテープや音源などより推定し構成した。わかったかぎりという/ことで、時期的に大きな偏りがあると思われる。


 ここでは1点だけ、本文との齟齬の見られる次の記述だけ検討して置くこととしよう。405頁21行め~406頁16行め「一九七八年」のうち23~27行め「三月」に4点挙がるうちの3点め、25~26行め、

◎二日 NHKスポットライト「浅草十二階盛衰記」(三〇分番組)司会・鈴木健二喜多川周之村松貞次郎・鳥海たへ子その他出演。/[喜多川コレクション所蔵]

とある。この番組であるが本文中に言及されている。第三章「問わず語り」の「五」節め、246頁11行めに、

 NHKの番組で、お孫さんにあたる鳥海たへ子さんのお話を聞いたんだけれども、/‥‥

とあって「組」の字の右に註番号の(69)があり、脚註欄を見るに248頁に至る長文の、バルトン家に関する註がある。細かく云うと246頁には左側に10行(右側は余白)、247頁は35行びっしりで248頁7行めまでである。ここにはその1段落めを抜いて置こう。

(69)NHKの「スポットライト」と/いう枠で放送された三〇分番組『浅草/十二階盛衰記』である。喜多川コレク/ション所蔵のビデオには正確な放送日の/記載がない。アナウンサーの鈴木健/二の浅草に十二階が建ったのは「いま/から八八年前」との説明から推測する/に、一九七八年かと思われる。


 3段落め(247頁17~23行め)にこの番組での鳥海たへ子の発言などが記載されているがこれは割愛する。
 私が注意したいのは、この註を書いてしまってから、巻末の「目録」に手を入れて、恐らく「NHKアーカイブスのクロニクル検索」で放送日を突き止めたのにその成果をここに反映していないことである。
 一応、今「NHKアーカイブス」の「NHKクロニクル」で検索するに「スポットライト(東京ローカル) 「浅草十二階盛衰記」」の放送日時は「総合 1978年03月02日(木) 午後07:30 〜 午後07:59」で出演者は「喜多川周之村松貞次郎/福原 弘/鳥海たえ子/福井 竹蔵」そして「鈴木健二|司会 アナウンサー」である。
 この番組は再放送されていて「スポットライト<ネット> 「浅草十二階盛衰記」」でもヒットする。放送日時は「総合 1978年03月05日(日) 午前07:30 〜 午前07:59」で同じ番組のはずが出演者は「喜多川周之村松貞次郎/福原 弘」の3人と「鈴木健二|司会 アナウンサー」の4人に端折られて(?)いる。
 そう、こういうところを出来れば遺漏なくやってもらいたいのである。
 そこで本題(!)に戻ろう。9月22日付(5)に引いた第三章「問わず語り」の添田知道の話、これは以下縷々考証して来た通り、石角春之助 編輯「江戸と東京」での濱本浩「塔の眺め」に反論した添田氏の「十二階の記憶」に基づいている。しかし、佐藤氏はこれについて脚註欄を白紙にして何ともしていない。しかし9月16日付「石角春之助 編輯「江戸と東京」(04)」に見たように、復刻『江戸と東京』第四冊の「江戸と東京 全四冊 * 総目次」と「江戸と東京 執筆者別目録」を作成したのは佐藤氏であった。そうすると佐藤氏は喜多川氏からこの話を聞いた数年後に「江戸と東京」に問題の文章が載っているのを見たはずなのである。ここは出来れば脚註欄に「江戸と東京」を挙げてもらいたいところであった。そして「江戸と東京」とは若干の齟齬の存することまで指摘することで、談話・回想の利用には慎重な態度が求められることを印象付けられたことだろう。
 復刻『江戸と東京』第四冊の巻末の「事項索引」は佐藤氏が作成したのではないようだが、119項のうちの1つに「十二階」は選ばれていて「②40 ③34,236 ④10,184,274」が挙がっている。これらはその事項が出ている頁ではなく、その文章の冒頭頁を挙げているようだ。うち③34が濱本浩「塔の眺め」で③236が添田知道「十二階の記憶」、④の3箇所は言及と云った程度だが、②は本書に参照しなかったのが惜しい内容である。次回、これに触れてしばらく続けて来た浅草十二階に関する記事を切り上げることとする。(以下続稿)

*1:私も同じようにして赤マント流言、道了堂の盛衰、赤堀又次郎、青木純二、山本禾太郎、笹野堅などの伝記を資料中心に纏めたいと思っているので。