瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

佐藤健二『浅草公園 凌雲閣十二階』(6)

 265~394頁「第四章 十二階凌雲閣の記憶と記録」について、まづ「あとがき」の記述を見て置こう。411頁15行め~412頁6行め、

 第四章は資料集成的な部分で、今日の本づくりからすれば、さらに収録が忌避される。これを省略せず一章に位置づ/けたのは、社会科学の論文には明確な「問い」と論証された「結論」だけがあればよいという、一部で主張される単純/な考えに少なからず違和感をもっていたことが関連しているかもしれない。「問い」がきちんと設定され「結論」が明/確であることという理想が間違っているとはまったく思わない。しかし、自分が出した結論だけ届ければじゅうぶんだ/というのはどうだろうか。資料を共有することを研究以前のたんなる前提とかたづけ、不可視の領域に追いやるべきで/はない。資料とすべきものの拡がりと共有のしかたが、研究における論証という実践の奥行きや結論の重みを支えてい/【411】るからだ。問いの立て方が適切であるかどうかもまた、そうした事実の厚みから審査される。多くのひとに知られてい/ない領域の小さな現象ならば、観察された事実の積み上げから共有しなければ、説明も批判もまた説得力をもたない。/この本の手のうちを明かすというつもりは毛頭ないのだが、データベースとして今後の研究が最低限共有すべきものを、/年表代わりに時系列で集成した。資料の量を勘案しつつ月単位や年単位、あるいは明治三〇年代、四〇年代などの適当/なくくりで、私自身の概説・解題をくわえている。▼の記号につづけて細いゴシックで組んである部分がそれにあたる。/引用は読みやすさを考えて読点をおぎない、副詞などの漢字をかなにひらいた。‥‥


 9月17日付(1)に全体の構成を確認した際にも述べたが、ここは十二階に関する同時代資料を集成した章で、既に細馬宏通『浅草十二階』にも引用、言及されているものも少なくないようだが、原文を、より長く、年代順に排列しているところに値打ちがある。
 ここは私の大いに共鳴するところで、やはり材料の提示は必要だと思うのである。いや、私の場合は、実は論文を読んでも、その執筆者が材料を正しく扱っているか疑問に思っている。だから何を見てどう解釈しているのか知りたい。だから人の論文の検証とともに、自らの材料と解釈を示したいと思ってそこからやっている。人の論文を読んで、怪しいと思ったところには必ず空隙がある。目的から外れるところで論証を素っ飛ばして済ましている。或いは目的のところでも読みたいように読んで色々素っ飛ばしている。甚だ危うい。私は当ブログでそこを突っ込んで行くことで芋蔓式に知られていなかった事実と資料の山を掘り当てて来た。もちろん私はそこまで優秀な山師ではないから、外れであったことも少なくないし、根気もないのである程度目星が付いたところでそれ以上掘り進めずに放置してしまった山も少なくない。
 しかし、世間には本当は繋がらないところを繋げてしまったり、直接繋がらないところを繋げて考えてしまったり、繋がっているところを見落としたり、と云った例が少なくないのである。そしてその多くが、資料をよく吟味せずに、上辺だけを読んで頭の中で繋げたり離したりするために起こっている。私はそこを突っ込んでいるが、私とて思い込みを免れないから、怪しいと思ってから、材料を揃えながら詳細に検討する。そうするうちに、当初の考えとは全く違う方向に展開することもしばしばである。
 もちろん、そうして稀覯資料、もしくはありふれていはいるけれどもその人物や出来事に関する資料と思われて来なかった資料を探し出して、その資料の著者はどのような人物で、どのような意図をもって書かれた資料か、序跋類まで検討した上で、当ブログになるべく原文のまま紹介しているのだけれども、そうすると、上辺だけ読んで呑み込んだ気になるような人に、上辺だけ使われてしまう恐れがある。いや、根拠に基づかない妄説の蔓延よりも確証に基づいて論じてもらった方が良いには違いないのだから、その共通の土台として使われるのなら本望とすべきである。ただ、ブログでの紹介では正当な業績と位置付けられないことに悩みがある。都合良く使ってもらうために孜々として資料を探索し紹介している訳ではない。かつ、資料を発掘したのではない人間が書いた論には、やはり視点の欠落がある。だから私は常々、もし当ブログが発掘・紹介した資料に価値があると思うのなら、それを使用して自分で何か書こうと思うのではなしに、私に書かせてくれと訴えている。私が書くための準備として資料を集めているのである。
 そこで、当ブログに最後まで書かずに放置している課題が多々あると云うのは、1つには、ブログに最後まで書いて、それを他人に使われて、礼も言われないのでは、いや、儀礼的な礼など言われたところでしょうがない、私にとって何の足しにもならぬようでは、こんな馬鹿馬鹿しいことはないと思って、出し惜しみする気持ちがあるからである。
 しかし出版界で資料集が忌避されるのであれば、やはりネット上に出して置くしかない。――一応目論見だけは示して置いた『昭和十四年の赤マント』は、新聞雑誌の報道、日記の記述を時間を追って、場所ごとに整理した内容にするつもりで、記事はその全文をそのまま紹介して行くつもりだった。従ってこの第四章と同じような造りになるところだったのである。私はこれに加えて、小沢信男「わたしの赤マント」に因んで『わたしたちの赤マント』と名付けるアンソロジーを編集して、これには後年に回想された体験と、小説や詩歌に書かれたものを集めるつもりだった。もちろん、もし可能であれば今でも出したいと思っているのだけれども、喰うには困らないが自腹を切って出すほどの経済的余裕はない。だからまぁ差当り、当ブログの記事に出してあるからそれで良かろうと思っているのだけれども、哀しいかな、赤マント流言で当ブログを訪問する人はまづいない。必要な人間はもう全てコピペしてしまったのだろうか。
 しかしとにかく、研究の土台として共有されるべき原資料を纏めて収録している点、ブログで似たようなことをしている(つもりの)私としては、これを本書の美点として特に強調して置きたいのである。(以下続稿)