瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

石角春之助 編輯「江戸と東京」(8)

・濱本浩「塔の眺め」(4)
 昨日の続き。31頁下段19行め~32頁上段16行め、

 ところが、ある日、某大學の出版部から出た、ある著名な/淺草研究家の著書を見て居ると、十二階のことを斜塔と書き/【31下】この斜塔の上の紅い燈は千住の大橋から、隅田川の船の上か/ら、上野の山のベンチから見る人の心に郷愁をそゝる、と書/いてあるのに出あつた。
 塔の上には電燈がついて居た。たしか十一階目と十二階目/の手摺に、ネオンサインなんかない時代だから、普通の百燭/くらひの電燈がついて居たが、私の記憶では普通の白色燈で/あつた。然し私の記憶だつて、あてにはならないから、ある/ひは紅い灯がついて居たかも知れない。それにしても、十二/階は斜塔なんかでは絶對になかつた。
 尤も、私が斜塔と云ふのは、ピザの寺院の鐘樓のやうに傾/いた塔のことであるから、若も他に意味があるとしたら、私/の抗議は覆されるわけである。
 そんなに信用のできさうな著書でさへ「十二階の斜塔の上/の紅い灯」などゝ書くほどだから、淺草繁昌記の、所謂東京/第一の眺望も、あるひは單に文章のあやかも知れないと、私/はまたまた不安になつた。


 この「著名な浅草研究家」は稲田譲で著書は『浅草』、「某大学」は早稲田大学である。
 これも、以前であれば昭和初年までに刊行された浅草に関する書物から大学出版部が版元になっているものを洗い出す作業が必要になった。かつ、見当を付けてもそこから何処に載っているか見て行かないといけなかったが、今は全文検索で直ちに分ってしまう。
・稻田讓『淺草』昭和五年十二月 十 日印刷・昭和五年十二月十五日發行・文明協會・二+一一四頁
 さて、国立国会図書館では扉の「あさくさ」を標題に採用しているが、国立国会図書館蔵書では失われている函及び表紙には「草淺」とあり、内題(一頁1行め)及び奥付には縦に「淺  草」とあるから、漢字の方を標題として採用すべきだろう。扉や内題下、奥付に著者名はないが、扉裏の「昭和五年十二月」付、文明協會識「序」に、2~3行め、

 著者は多年淺草に興味を持ち、淺草に關する資料の蒐集に努めて居られ、曩に「淺草寺緣起」/の一書を編述され、また本會のニユーズに「淺草漫談」を寄稿されたこともあつた。

とあって、「著者」は「文明協會ニユーズ」第十號に「淺草漫談」を寄稿した稻田讓と分る。尤もこれも、「日本の古本屋」に上がっている函と表紙の写真には同じレイアウトで標題の上に「著 讓 田 稻」とあり、また下部にゴシック体で小さく「リラブイラ會協明文」とシリーズ名があるが、これも扉や奥付等には見当らない。
 奥付に「編輯兼/發行者」また「發行所」として見える〈財團/法人〉文明協會は、代表者が市島謙吉(春城)で住所が「東京市牛込區早稻田町三十四番地」だから明らかに早稲田大学の系統の団体である。
 続く段落の前半(4~8行め)を見て置こう。

 淺草はひとり民衆娛樂の中心地のみでなく、細民、失業者、浮浪者、乞食、不良少年少女、賣/笑婦等の巢窟でもあり、あらゆる社會問題の發祥地である。從つて淺草に興味を感ぜられる讀者/も多く、「淺草漫談」の續載を希望せらるゝ向も多かつた。本書は從來のライブラリーに比し著し/く色彩を異にするものであるが、本年度に於ける最終篇として、著者に請うて淺草資料の一端の/披瀝を依賴したものである。もとより小著のこととて、淺草の全貌に觸れることは困難であり、/‥‥


『文明協会ライブラリ』は昭和3年(1928)から昭和6年(1931)に掛けて30点ほど刊行されているが、時事・社会問題、国際情勢などを取り上げており名所の歴史や伝説を取り上げたものは確かに異例である。
 少し省略して最後の段落(12~13行め)を抜いて置く。

 淺草の現代篇は、著者がまた筆を新にして出版される筈で、著者の前編著「淺草寺緣起」と併/讀されれば更に幸福である。


 著者の稲田氏は明治45年(1912)に「早稻田文學」に小説を寄稿したこともあるから早稻田の卒業生なのだろうけれども、結局単著はこの1冊と云うことになっているらしい。
・淺草寺緣起編纂會 編纂『淺草寺緣起』昭和三年十一月十一日印刷・昭和三年十一月十五日發行・定價金壹圓五拾錢・淺草寺緣起編纂會・十八+四+二+六+二+一九八+六頁
 稲田氏の名は「凡例」5項のうち5項め(二頁2~5行め)の最後に「‥‥。また本書の編輯、校正その他はすべて早大文科出身稻田讓氏の手になつたことを附記/して置く。」と見えるのみである。
 さて、文明協會ライブラリ『淺草』に戻って、濱本氏が驚かされた記述を見て置こう。
 一頁、最初に大きく2行取りで標題があって、次いで1行分空けて2行取り6字下げで「日本一の盛り場淺草」と題する1章めが五頁5行めまで。その冒頭、一頁3行め~二頁6行めを抜いて置こう。

 普通に淺草と呼べば、淺草公園七區とその附近一帶を指すのであつて、第一區の觀音堂と、第六區/の活動寫眞街がその中心をなすことは勿論であるが、大正十二年の大震火災前までは、公園西北の一/角に十二階の斜塔が聳へてゐて、その下では脂粉の女達が盛んに客を呼び、淺草風景の一つであつた/と同時に、この十二階下はたしかに淺草の中心地の一つでもあつた。
 その昔十二階の斜塔は淺草名物の一つであつたばかりでなく、「淺草」の象徴でさへあつた。塔が漸/く傾いて危險が傳へられるやうになつてから、また風俗警察がやかましくなつて塔の下の女たちがし/ばしばそこを追はれてから、淺草の繁榮は活動寫眞街に移つたが、淺草にはたしかに「十二階下時代」/なるものがあつたのである。淺草に遊ぶほどの人で、一度は必ずこの塔に登らなかつた人はなく、狹/い路次の人波に揉まれながら、脂粉の女たちを素見かさない者は殆んどなかつた。
 塔に登れば、淺草界隈を一目に眼下に見下すばかりでなく、大東京の殆ど大半を望むことが出來/【一】た。夜になればこの斜塔には紅い燈が入つた。この紅い燈は上野の森からは勿論、吉原土手からも隅/田の川舟の中からも、更に遠いあらゆる地點から眺められた。そしてこの塔の燈を眺める人々は、遠く/近く、それぞれの氣持で淺草を感じてゐた。十二階の塔はそれほど、淺草風景に一つの情趣を添へて/ゐたのである。
 大百貨店とダンスホールと、この二つを除けば、殆んど何でもないものはないと云はれる淺草であ/る。風俗警察がやかましくなつて、十二階下は見る影もなくさびれて行つたと云つても、‥‥


 こうして見ると、稲田氏は確かに「傾いた塔」の意味で「十二階の斜塔」と称していることが分る。
 しかし濱本氏は「紅い燈」については「私の記憶だって、あてにはならない」と云って譲歩しつつ、稲田氏の「漸く傾いて危険が伝へられるやうになってから」については「斜塔なんかでは絶対になかった」と強く否定する。しかし9月23日付(5)に挙げたサイトで確認出来る限りの濱本氏の経歴からすると、濱本氏は十二階のあった頃の東京に、それほど長く暮らしていた訳ではなかったらしい。ただ稲田氏の記述を見る以前に、凌雲閣が「傾いて危険」な「斜塔」であったとする記述に全く接していなかったことは分る。
 しかし稲田氏の方は久しく東京にいたようで、かつ濱本氏より早い時期の回想である。それに十二階の斜塔の紅い灯が眺められた場所が少々違っているところからして、どうも濱本氏は「塔の眺め」執筆に際して稻田讓『淺草』を見直していないらしく、稲田氏が「他」の「意味」ではなくまさに「傾いた塔」の意味で「斜塔」と呼んでいることに気付いていない。全文検索出来なくても(!)巻頭一頁に書いてあるのだから手許にあれば分ったはずである*1
 稲田氏は昭和5年(1930)、濱本氏は昭和12年(1937)執筆、浅草十二階凌雲閣を実見し登ったことのある2人が、大正12年(1923)関東大震災で半壊し爆破されてから10年前後にしてこうも喰違ったことを書いていると、やはり同時代の記録――新聞の確認が必要になる。もちろん、新聞記事を活用している先行研究、細馬宏通『浅草十二階』や佐藤健二浅草公園 凌雲閣十二階』も精読して、確認しないといけない。(以下続稿)

*1:もちろん、稲田譲『浅草』でない、別の専門家の、大学出版部が版元で、十二階が斜塔で紅い灯が点されていたとの記述がある本があるのかも知れない。しかし、当ブログではしばらく、『浅草寺縁起』の(実質的)編者で、大学関連の財団法人が版元で、そして何より斜塔と紅い燈の記述のある稲田譲『浅草』と、見て置く。