私は高校3年生のときだけ、誰に誘われたのだったか忘れたが文芸部に所属して、小説みたいなものを書いたことがあるのだが、そのとき隣のクラスの新選組ファンの女子生徒が実に堂々たる、長州の間者として新選組に紛れ込んだ若者を主人公にした小説を書いて、――隊士たちと友情のような物もそれなりに芽生え、町娘と淡い恋愛関係になり、古高俊太郎が拷問で自白したときに自分の名前が出なかったのでホッとしたのも束の間、副長の土方歳三には正体を見抜かれており、普段通り巡回に出掛けたところ土方が現れて詰問され、隊士たちに取り囲まれて斬り付けられ、町娘のことを思いながら粛清される、と云った筋だったが、これが私が新選組マニアに接した最初だったかも知れない。いや、その後、接してないから最初で最後である。
原稿をもらっただけで合評会みたいなこともしなかったし、こちらに知識がないからどの程度入れ込んでいるのか聞くこともなかったのだが、どうもこの人は新選組全体を対象にしていたらしい。一応モデルはいたらしいのだが、殆ど知られていない人物で(その後聞いたことがない)しかも少し改変して、想像で補って書いたようなことを自分で自作解説みたいな短文に書いていた。切っ掛けは確か司馬遼太郎『燃えよ剣』で、当時のことだからもちろん活字で接したのである。
森満喜子はそうではなくて、沖田総司一筋である。――新選組は、その全体を扱ったり、余り注目されていない人物に照明を当てたり、近藤勇や土方歳三など中心人物を追い掛けたり、色々な愉しみ方が出来ると云うことなのだろう。
あるキャラクターに惚れ込み、その人物を主人公にした小説を書き続ける、と云うと同人誌の作家みたいだが、森氏の作風もそれに近い気がする。いや、私はそういう同人誌を実際に手にしたことはないので、何となくイメージで述べているだけなのだが。
ただ、森氏は先駆者なのである。『定本 沖田総司――おもかげ抄』を見るに昭和23年(1948)から子母沢寛に手紙を出し、上京の度に資料を集め関係先を回り、同書214~216頁「あとがき」に拠ると、独自の調査結果を纏めたレポート「おもかげ抄」を昭和40年(1965)に司馬遼太郎に見せている。これによって司馬氏の著書に沖田総司研究家として取り上げられたことで、名が知られるようになったらしい。以後はそのまま抜いて置こう。214頁6~14行め、
‥‥。その後、全国各地から、沖田についての史料を知りたい、という手紙/が来るようになり、第一回の「おもかげ抄」にその後入った史料を加えて書き直したのが昭和四十三/年の第二回「おもかげ抄」で、これは生原稿のまま北は青森から南は鹿児島まで日本各地の有志の方/に回覧された。それがたまたま新人物往来社の大出俊幸氏の目に止まり、『新選組覚え書』の中に収/録したいからというお話があって、さらに新史料を加えて書き直したのが第三回目の「おもかげ抄」/で四十七年二月に刊行された。その後、新選組研究、沖田研究は急速に盛になって、『新選組覚え/書』の中の「おもかげ抄」はきわめて不完全なものとなり、恥ずかしい思いをしていたところ、再/び、大出氏から、あれを書き直して一冊の本に、というお話があって、筆を執ったのが今度の第四回/目、「おもかげ抄」である。【214】
これ以降も新史料の紹介はあったはずだが「おもかげ抄」はこの第四回が『定本』でこれ以上の増補改訂版はない。森氏晩年刊行の『沖田総司・おもかげ抄 <新装版>』は、この『定本』の新装版で内容に変わりはないようだ。異同は別に記事にしよう。
とにかく森氏はこのような土台を自ら拵えた上で、多士済々の隊士たちと沖田総司の個人的な交遊、資料に断片的に見える人物との関係に想像を膨らませたり、さらには医者として知見なども盛り込みつつ、短篇小説を書いていったことが、私が今借りている短篇小説集では『沖田総司抄』の244~246頁「あとがき」、『沖田総司幻歌』の267~269頁「あとがき」に説明されている。
しかし「あとがき」を読む限り、ふと思い付いたことにどんどん想像を膨らませてぐいぐい纏め挙げてしまうタイプらしく、少々強引なところもあるように感じられる。いや、その少々強引なまでの行動力、――子母沢寛や司馬遼太郎に手紙を出して質問するなどの積極性、沖田総司が注目される前から独自に調査を進めていた先駆性、それが著書を何冊も出すまでに繋がった訳だから、そこが短所であると同時に、長所でもあるのだろう。
今、沖田べったりだと余りにもベタで同人誌的(?)であるような気が(偏見かも知らんが)してしまうのだけれども、当時はまだ森氏の「おもかげ抄」が全国に回覧されるくらい沖田総司の知識がレアだった。だからこそ森氏は、短所を抱えながらも先頭を走って、折柄のブームみたいなものにも乗って、何冊も著書を出すことが出来たように、見受けられるのである。
これから取り上げる「濤江介正近」も、こうした森氏の長所と短所が、両方現れた作品となっているように、思われるのである。(以下続稿)