瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(26)

・名和弓雄「沖田総司君の需めに応じ」(4)
 やはり細部に拘泥って当記事だけでは何のことやら分らぬことになるだろうから、この名和氏の文章の要領を得たい人は、東屋梢風のブログ「新選組の本を読む ~誠の栞~」の、2015/11/04「名和弓雄『間違いだらけの時代劇』」の、簡にして要を得た紹介を参照されたい。
 昨日の続きで、村上孝介の話の続きを見て置こう。名和氏の上手な作品との評に答えて168頁11行め「上手ですね。しかし、偽物です。明治になってからも、そう刻んだらしい」、銘鑑に載っているか問われて15行め「載っています。この人はねえ、多摩川原に引き出されて、首を斬られました」、理由を問われて169頁1行め「偽物つくりが原因だと思います」。
 ――11月21日付(22)に引いた『間違いだらけの時代劇』の「幽霊刀工横行」の記述は、この村上氏の発言に基づいていることが分かる。
 ただ疑問なのは処刑の場所を本稿では「多摩川原」そして『間違いだらけの時代劇』には「多摩川の河原」としていることで、村上氏は11月12日付(14)に見た『刀工下原鍛冶』にて、濤江介正近が「水無瀬河原」すなわち多摩川の支流の浅川の河原で斬首された旨、それを目撃した古老の存在とともに伝えていた。
 そうすると、ここは名和氏が記憶に頼って書いて誤ったか、村上氏の「ズウズウ弁」でよく伝わらなかったのか、しかし『間違いだらけの時代劇』では「八王子の千人隊に‥‥打首」としているのだから、八王子なら多摩川ではないと気付いて欲しいところであった。ちなみに八王子千人同心慶應二年(1866)十月二十八日に「千人隊」と改称し、慶應四年(1868)六月九日に解体されている。「明治になってからも」であれば千人隊ではないことになるが、誰がどのような経緯で濤江介正近を摘発して斬首したのだろう。
 さて、村上氏との電話を終えると早速、169頁6~8行め、

‥‥、筆者は刀工銘鑑を二、三冊ひらいて、正近なる刀工を探してみた。
 新刀期に、正近は八人いるが、「濤江介は、正近二代、八王子木挽町住、酒井並右衛門男、/時代は安政」と記載されている。木挽は小比企のこと。


 これは村上氏も『刀工下原鍛冶』に引いている『刀工総覧』の記述であろう。
 12~16行め、

 あちこちの下原刀の研究者に問い合わせてみても、それ以上のことは、目下のところ、不/明であるが、考えれば考えるほど、疑問が湧いてくる。
 濤江介は、本当に、近藤や土方や沖田に依頼されて鍛刀したのではないだろうか。
 では、何ゆえに、信濃国浮州などという架空の人物名を刻み、自分の名を刻まなかったの/であろうか。


 この記述からして名和氏は村上氏の『刀工下原鍛冶』を参照していないことが分かる。
 しかし、尤もな疑問である。名和氏はさらに疑問を連ねて、170頁9~12行め、

 このように、疑問は後から後から、雲のように湧いてきて、留まる所を知らない。
 新撰組の青年剣士、女性のアイドル沖田総司のことは、随分書かれたものが多く、それな/りに読んでいておもしろいが、沖田を、おもしろく書ける作家ならこの濤江介正近を書いて/みてはいかがであろう。

と云うが、確かに小説にでもするしかないだろう。この書き方からすると、名和氏は森満喜子が自分と会った直後に出した『沖田総司抄』に「濤江之介正近」を書いていることを、忘れていたようだ。(以下続稿)*1

*1:12月12日追記】村上氏の書名を誤っていたのを訂正。