瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(24)

・名和弓雄「沖田総司君の需めに応じ」(2)
 昨日の続きで、まづ「捕物展」についてだが、もちろん昭和期の地方の百貨店の催事なぞは図録でも出していない限り、調べる手懸りがこれまでは摑めなかったのだが、国立国会図書館デジタルコレクションの公開範囲が拡大され、さらに全ての資料ではないが全文検索が可能になって、当りを付けて片端から見て拾って行くようなことをしなくても、ある程度材料が集められるようになった。
・「旭の友」第二百六十七号(十月号)昭和四十三年 九 月二十五日印刷・昭和四十三年 十 月 一 日発行・七十五円・長野県警察本部警務部教養課・68頁
 5頁(頁付なし)下段「十月号目次」には、20行め「 盛況御礼・捕物展(中野署訪問)…………編集部…二二」とある(漢数字半角)。なお3~4頁(頁付なし)口絵写真の3頁下段左に中野警察署の入口を写して「捕物展と防犯・交通安全展をもよおし、好評をうけた。/本文訪問記事参照。(中野)」とのキャプションを添える。門柱の脇に高さ3m近い立て看板に墨書「〈名  和/コレクション〉捕物展と防犯 交通安全展」とあって左側下詰めに期日も入っているらしいが網点になっていて読めない。
 22~23頁見開き、22頁1~2段めの右側には横組みで「盛況御礼・捕物展/中野署の「防犯・交通安全展」をルポる」の題と、上に「(夕方になると会場は、勤め帰りの人や買物カゴの奥さんがふえる。)」とのキャプションを添えた捕物展会場の写真。また3段めの下を横線で仕切って4段めは「江戸の捕方」と云うコラムになっている。23頁4段め末(29行め)に「(持田)」とあるのは教養課事務吏員の持田昭で、昭和44年度からは編輯兼発行人を務めている。22頁3段め5行めまでを抜いて置こう。

 最近のテレビは、ちょっとした〝捕物/ブーム〟である。毎日、全国のどこかの/テレビ局の電波に捕物ドラマが流されて/ そんな社会的なムードを敏感にとらえ/て、中野署では八月二十八日から三日/間、〟明治百年記念・名和コレクション/捕物展〟を開催した。近世刑罰史や、忍/者・捕物研究の第一人者で、捕物刑事資/【1段め】料の収集家として知られる名和弓雄氏秘/蔵の各種十手やクサリガマ、手裏剣、呼/子笛、番所捕具、忍者の装束、古文書な/ど三百余点の珍品を公開展示したもので/ある。
 いままでに全国のデパートで四カ所公/開されただけの貴重品で、警察が主催し/ての展示は初めてのこころみだという。
 しかし、デパートの催しものがそうで/【2段め】あるように、捕物展自体はやはり〝呼び/こみ〟であり、署がネライとする本能寺/のテキは、あわせて行なわれた防犯・交/通安全展であることはもちろんである。
     ◯

と云う訳で、◯で仕切った後はしばらく防犯・交通安全展の紹介で、23頁の1・2・3段めの左にはその様子を紹介する写真3点を掲出している。そして23頁2段め4行めを◯で仕切った後は最後まで、捕物展会場と休憩室で名和氏と話したこと、そして展示物のうち幾つかを紹介をしている。その辺りの記述は割愛するが3段め6~8行め「‥‥名和さんは、展示期間中は/会場にあって、参観者の質問に熱心に説/明応対されていた。」との記述に注意して置きたい。
 さて、この「旭の友」の記述からして、名和氏が捕物展を開催するようになったのは昭和40年代になってかららしく思われるのである。
 しかし、たまたま警察署で開催して、県警の雑誌に載ったので引っ掛かったので、デパートの催し物ではやはり分らないところであった。
 そして「森満喜子さん」が「沖田に関するエッセイや小説を、すでに二冊、出している」についてだが、森氏が作家活動を始めたのは昭和40年代後半、まづ昭和47年(1972)11月に『沖田総司哀歌』、次いで昭和48年(1973)12月に『沖田総司抄』、更に昭和49年(1974)11月に『沖田総司幻歌』と、3年続けて新人物往来社から短篇小説集を出している。従って「二冊」めの出た後の昭和49年と云うことになりそうである。
 しかしながら、――これら3冊は全て東屋梢風のブログ「新選組の本を読む ~誠の栞~」に紹介されているが、度々言及している2015/11/04「名和弓雄『間違いだらけの時代劇』」に拠れば、「『沖田総司抄』のあとがきに、名和弓雄と村上孝介への謝辞がある」とのことなので、『沖田総司抄』よりも前に名和氏に会っているはずなのである。
 そうすると昭和47年11月刊『沖田総司哀歌』ともう1冊は、同年2月刊の『新選組覚え書』らしく思われる。これは森氏の単著ではないが、後に増補して単行本化した「沖田総司 おもかげ抄」を寄稿している。そうすると『沖田総司哀歌』から昭和48年12月刊『沖田総司抄』まで、恐らくは昭和48年の前半に大牟田松屋で開催された名和コレクション捕物展で名和氏と出会い、そして司馬遼太郎から贈られた短刀について名和氏と村上氏の教示を受け、それを『沖田総司抄』収録の短篇「濤江之介正近」に活用した、と云うことになりそうである。
 尤も、いづれ新人物往来社刊のこれら4冊を私はまだ見ておらず、刊年月は図書館OPAC古書店サイトに拠って書いている。よって時期については改めて、原本を確認した上で私としての確定案を出したいと思う。昭和48年に九州北部で発行されていた新聞を調べれば、確定させられると思うのだけれども。(以下続稿)